【特別公開】単行本『宇奈月小学校フライ教室日記』第一章(本村雅宏)

フライの雑誌社の単行本 
宇奈月小学校フライ教室日記 先生、釣りに行きませんか。
文・写真 本村雅宏(富山県小学校教諭)

宇奈月小学校フライ教室日記(本村雅宏著/フライの雑誌社刊)

◯『宇奈月小学校フライ教室日記』は、1993年から1996年にかけて季刊『フライの雑誌』に連載されました。連載時から現在までの間に社会状況は激変しました。

◯これから先、どのような未来が子どもたちを待ち受けているのか、不安は尽きません。けれど山や川での遊びと学びを通じての、人と自然とのつながりの発見はきっと、子どもたちの心の支えになります。

◯いつまでも今日より待ち遠しい明日であってほしい。そんな思いを込めて『宇奈月小学校フライ教室日記』をお届けします。       フライの雑誌社 編集部

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※単行本『宇奈月小学校フライ教室日記』(本村雅宏著)の第一章を全文掲載します。

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宇奈月小学校フライ教室日記 先生、釣りに行きませんか。

文・写真  本村雅宏(富山県小学校教諭)

(一)

川釣り

 大学を出てすぐ、小学校の教師になった。黒部川河口部右岸の小学校である。向きも不向きも考えず一年を過ごした。二年目に高校時代から交際を続けていた女性と結婚した。生活が安定したせいかいくぶん太ってきた。
 その頃、名古屋に住んでいた親友が、しきりに、釣りのことを話し、誘ってきた。彼は帰省の都度、僕を近くの海岸へ何度かつき合わせた。海で釣りをしながら一日を過ごすのは、悪い気はしなかった。僕の家は山にも海にも、また川にも近かったが、富山湾を囲むように水平線に浮かぶ能登半島に、目が向くことが多かった。何度か釣りに行くうちに、結構楽しくなっていた。
 勤務先の学校へ通う途中、いくつかの川を渡る。片貝川、布施川、そして黒部川。ときどき、竿を立て、川に立ちこむ人の姿を見ることもある。川釣りか。それもいいな。どこか文学のにおいがする。川釣りを描いたつげ義春や井伏鱒二の作品がある。クルマを運転しながら、そんなことも考えた。
 学校近くの珈琲店に開高健の『オーパ!』があった。開高健の文学作品は以前から読んでいた。しかし、釣りに関する文章はあえて避けてきた。特に理由らしい理由もなかったのだが、釣りの話にありがちな、釣り師が使う符丁のような言葉には馴染めない思いがあった。ドラマや戯画仕立ての釣りなど滅相もない。それでも釣りを始めた思いもあるから、『オーパ!』を読んでみた。

 驚いた。これは釣りのレポートではない。たまたま、素材が釣りであるばかりで、釣りについて語っていない。開高が釣りに向き合いながら心を巡らせ、独特の言葉を生み出している。こういうものを僕は読みもしないで批判を続けていたのだ。悔しかった。
 そうだ、竿を買おう。ともかく、竿を買うのだ。漫然とキスなど釣っている場合ではない。あの川へ行こう。
 しばらくして、ルアーロッドとリールを手に入れた。心の傷をまさぐりながら釣りをする、という開高のような立ち姿に寄り添うには、この選択しかないように考えていた。
 だいたい、僕は黒部川に、ルアーで釣れるどんな魚がいるか知らなかった。イワナは巷間「幻の魚」とか言われているはずで、簡単にいるものとは思えない。それに比べて、ニジマスならつかみ取りとかで聞いたことあるし…と、ニジマス釣りに適したウエダのライトアクションのロッドにした。リールは、ダイワのスピニング。メップスやダーデブル、トビーといったルアーを1個ずつ買った。
 買ってしまってから、身近な川にニジマスなど本当にいるのだろうかと不安になったが、買ってしまったものはしようがない。さっそく、翌日までに、本の通りにルアーのフックを砥いだり、リールに油を差したりした。そのうちに、穏やかな昂ぶりを感じてきた。
 その甲斐あってか、初めての釣行では運よく一尾のウグイを手にすることができた。もっとも、「ウグイだよ。」と同行のカズヨシ君に言われるまでは、それが何という魚であるかも知らなかった。
 それきり海に行かず、川に通いつめた。

宇奈月小学校

 あくる三月、転勤を言い渡された。このあたりの小学校の場合、五年生を担任するものは、卒業までを見届けるように留まり、六年生を担任することが多い。新卒での採用から三年間担任した彼らと、僕が別れたかったはずはない。新校舎が完成して、新しい形態の学習方法の研究も始まっている。それでも何かの事情があるのだろう。僕自身にまつわる事情かもしれない。あらがうつもりはなかった。
 校長先生は、何やかやと理由をつけていたが、僕はほとんど聞いていなかった。新しい学校は、川にも近そうだし、毎日釣りができるからいいか。こちらの気持ちでどうなるものでもないし。そこで、わかりました。喜んで参りましょう、ということにした。
 転勤先は、同じ黒部川沿いの上流にある学年が一クラスずつの小規模校である。山と川に挟まれた河岸段丘崖の小さな集落にある。これより上流にもう学校はない。温泉街がひとつあるきり。グラウンドの向こうはかなり急俊な山が、そのまま北アルプスに続いている。
 学校の前の唯一の幹線道路の両脇には、小さな家並みがあり、家の裏側は黒部川だ。校区にはスキー場もある。温泉もある。雪は四月まで残り、クロスカントリースキーは、どこかその辺りで出来そうである。
 放り投げてしまったような前の学校の子どもたちのことを考えると、転勤には割り切れない思いがあったが、この地は申し分ない。転勤してしばらくすると、学校の雰囲気も自分に合ったものを感じていた。学校の名は、宇奈月小学校と言った。
 同じ年の一月、父親になった。これまで自分はギラギラしながら生きていくのが好きだと思っていたが、この頃から、アイザック・ウォルトンの「穏やかなることを学べ」という言葉が、妙に自分にかかってくるのを感じていた。

山村の子どもたち

 それまで、釣りを学校に持ちこんだことはなかった。子どもたちに釣りの話をすることもなかった。職場の人間とも、滅多に釣りの話はしなかった。ところが、転勤してからはよく釣りの話をするようになった。親になったことや教師として余裕がでてきたからかもしれないが、それだけが原因ではない。教室の傍らを流れる黒部川がそうさせたのかもしれない。
「山村の児童」という言葉に、どんな子どもたちを想像されるだろう。都会の子どもたちとは違う、たくましく野山を駆け回る子どもたちの姿をイメージするだろうか。実際、住まいの周辺が山や川なのだから表面的には想像の一部は当たっているが、しかし、重要な部分で外れてしまう。
 つげ義春の『紅い花』に出てくるシンデンのマサジは、象徴的な山の少年だ。宇奈月の子どもたちはくらしが少しばかり自然に寄り添っているだけで、マサジのように、ああして一人で山を歩ける子どもはいない。今はどこへ行ってもそうだが、子どもたちは驚くほど、自分が住んでいる地域のことを知らない。
 新しい先生が赴任すると、村のちょっと活発な少年たちがその先生が土地に明るくないのをいいことに、方々連れ回して道に迷わせ、途方にくれた先生が近所の家で道を訪ねると、「新しい先生だね。マサジにからかわれたんだよ。」なんて言いながら、おばちゃんが笑顔で道を教えてくれる。そんな風景はもう映画の中の話だろう。ゲームの謎解きは知っていても、裏山の道を上ろうとはしない。

 でもおそらく、子どもたちの質が変化したわけではないだろう。変化したのは社会的な環境だ。価値観の変化と言えばそれまでだが、あの山の向こう、その道の曲がり角の先がどうなっているのかという好奇心が、少なく薄くなってきた。知ろうとする前に、妙に物わかりがよく、わかったような気分になってしまう。一番大切なことは身近にあるはずなのだが。
 学校のきまりで河原は立ち入り禁止だし、もちろん川で泳ぐなんて許されない。理由はちゃんとある。自然に人が手を付け始めると、子どもが近寄れるような場所ではなくなるのだ。そんな環境の中で、マサジが育つわけはない。教師も大人も、山や川、野原に立つことが少なくなっている。もっともそれはここに限ったことではない。人と自然との、何かのつながりが切れてしまったのだ。

野外活動クラブ

 赴任してしばらくは、勤務時間が過ぎてもすぐに家には帰らなかった。学校にもいなかった。学校の裏山、黒部川の河原、温泉の裏道、工事の飯場などを見て歩いた。教材として生かせるものはないか、毎日、地域をロケハンをしていたのだ。
 公然と釣りもしていた。地区の見まわりだとか言って、遊んでいるんじゃないかともそしられたが、釣りを媒介として感じたものが本当に力のある感動なのだ、これは教材研究なのだと、へ理屈をつけた。山にも登った。薮も潜ってみた。そんなことをしているうちに、〈ここは本当にいいところだ。〉と感じるようになった。どこにいてもその場所の風や光が快いのだ。
 ずっと昔から変わらず、人の暮らしの近くにあったはずのものがここには全部ある。そんな風景に出会うたびに、僕の心はざわざわと動いた。そこらに転がっているものが何でも面白く見えてきた。子どもたちがその面白さに気がついていないのならば、気がつかせよう、と思うようになった。
 まず、クラブを作った。野外活動のクラブである。釣りをするための下準備もあったが、それよりもとにかく子どもたちと外に出たかった。授業でもしばしば外に出た。外は出会いにあふれていた。勝手に気の向くまま飛び出して校長先生に叱られた。地域の自然が伝えようとしているものをうまく教材化できる力があれば、そういう教育哲学を持ち合わせていれば、教室はどこにでもあり、教師もまたどこにでもいるはずなのだ。地域に教室を求め、そこにある風物を教師にしようと思った。
 授業やクラブ活動を通して、子どもたちの目も次第に広がり始めた。僕一人の目を通して広がっていた自然の姿が、それぞれの子どもたちにも映るようになってきたようだった。クロスカントリースキーが楽しめそうな斜面もたくさん見つけた。「根性坂」「骨折り坂」「まんじゅうの丘」など名前もつけた。道を歩く登山に飽きて直登を試み、進退窮まったこともある。
 同じころ、黒部川の河原は、その姿をどんどんと変えていった。数年後に完成予定のダムがある。これまでの電力会社の発電用ダムとは異なり、国営事業として建設されている。黒部川最後のダムと言われている多目的ダムである。工事のための土捨て場がこの地域の河原に指定されていた。
 大量の岩石が、次第に河原を埋め尽くし、グミの林を押し潰していった。河岸段丘崖は元の半分の高さとなり、河原はブルドーザーでならされ荒野となった。
 この土地の人々の言い方を借りれば、かつてのように「うちの裏まで水が来る」ことはない。川が与えてくれた恩恵はたしかに大きかったが、川が奪っていった幸せもまた大きかった。
 そこで、子どもたちと河原の定点観測を始めた。せめてこの風景を記憶したかったし、子どもたちに見せておきたかった。判断は押しつけない。評価は、いつになるかは判らないが、子どもたちそれぞれがしてくれるはず、と思うことにした。

開いた世界

 河岸段丘の樹木がすべてなぎ倒され、縄文時代から薮に覆われてきた崖が日光の下にさらされた年、名古屋に住んでいた親友、大和がフライロッドを抱えて帰ってきた。家業である運動具店の仕事に就くためである。
 僕もフライロッドを振ったことがあった。名古屋に長期出張をしていた時、中津川のマス釣り池へ遊びに行った。ルアーとフライフィッシング専用の池で、僕は小さなスプーンで遊んでいた。
 しかし、太陽が高く上がってしまうと、まったく魚っ気が失せてしまった。「フライロッド、振ってみないか。」と大和に誘われ、広い池の真ん中でキャスティングを教わった。一〇月末の澄み切った空に、僕が繰り出したラインが恵那山めがけてするすると伸びていった。美しい。こんな美しいものなら僕もやりたい。やってみるか。冷たい空気の中で、大きく深呼吸した。
 翌春まだ水の冷たい三月の黒部川へ出かけた。大和はフライ、僕とカズヨシ君はルアーである。気温もそう高くなく、水もやや多めで、大和の釣果は期待できそうもなかった。スプーンの遅引きが得意なカズヨシ君を先に進ませ、いくつかフライに関する質問をしながら歩いていると、大和が突然しゃがんだ。「ほら。」といって指差す先には、小さな虫がいた。本で見たカゲロウである。水辺の石に這い上がり、今まさに脱皮の最中だった。

 どれくらいの時間であったろうか。きっと、そんな長い時間ではなかったはずだ。僕と大和は、幼虫時代の殻を脱ぎ捨てたカゲロウの羽がしゃんとして、呼吸を整えるようにして飛び立つまでを眺めていた。─
 大和が持ったフライロッドからつながる釣り糸の先には、そのカゲロウを模して大和が自分で巻いたフライが結ばれていた。フライマンである大和の視線には、人知れず川で繰り返されている小さな生命の存在が、しっかりと映し出されていたのだ。
 僕がカゲロウの羽化を見たのは、その時が初めてだった。これまで何回ここへ来たのだろう。それでもこんな瞬間は見たことがなかった。いや、見えなかった。見ようとしていないから、見えない。あたりまえの話である。子どもたちが、裏山に登ろうとしないのと同じことだ。
 教育の大きな意味は、見えない世界を見えるように変えていくことにあると思う。しかし、多くの場合、見えていたものに目隠しをしてしまう。既成の知識と借り物の価値観でくるんでしまう。それが今、学校が抱える問題の多くの原因となっているのかもしれない。体験さえもアイテムのひとつにして提示してしまうのだ。カゲロウの羽化を目のあたりにしたとき、僕もまたそうした教師の一人であったか、と悔しかった。
 世界は開いているのである。僕たちの前に開いている。黒部川の河原がそうであるように、表面がたとえどんなにただれていようとも、その下には脈々と生き続いてきた生命がちゃんと存在している。それに気がつくかどうかは、こちら側の心持ちにかかっているのだ。自然の精霊は、それを信じるものに姿を見せる。

フライフィッシングへ

 矢も盾もたまらず、フライロッドを手に入れた。フライリールは思いもかけず知人にいただいた。フライタイイングの道具も、妻に内緒で買い入れ、その年に空き教室を利用して作られた児童会室の机に備えつけた。フライに関する本は目につくごとに買った。
 地図帳を開くように川の世界の情報を拾い集めた。水生昆虫のこと、生態系のこと、地形のこと、歴史、文化など世界は次第に緻密になってきた。それでも見えない世界は依然として横たわっている。情報がいくら蓄積しても、本質は見えてこない。体験してみなければわからないことの方が多いのだ。
 見えない世界への挑戦を、子どもたちと始めてみることにした。幸い、学校の理科室には役立つ用具がたくさんある。子どもたちも野外活動は嫌がらない。これまで続けてきた河原の定点観測に「川虫の観察」が加わった。 
 フライフィッシングだって、〈釣り〉にすぎない。釣りに貴賎はない。しかしフライフィッシングは、自然へのスタンスの取り方が他の釣りとは少し違うように感じる。釣りなのであるから、魚を釣る手段であることには変わりはないのだが、生命への向き合い方が、他の釣りと違うように感じられる。何が違うかは、まだうまく言えない。
 やがて、フライフィッシングは僕の「世界」を広げ、この後、教え子たちをも巻き込んでいくことになった。──  (単行本へつづく)

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『宇奈月小学校フライ教室日記』 本村雅宏(著)
B6版 206頁 税込価格1,800円(本体価格1,714円)
ISBN 9784939003318

著者紹介
本村雅宏(ほんむらまさひろ)/1962年生。富山県下新川郡朝日町生まれ。富山大学教育学部大学院教育学研究科卒。入善町、宇奈月町、朝日町の小学校に勤務。社会教育主事として朝日町教育委員会、富山県教育委員会勤務の後、魚津市の小学校に勤務。自然活動愛好者団体「山川野遊び風呂式」フィールドナビゲーター。

目次
第一章 見えない世界
第二章 よみがえる山と川
第三章 最高の幸せ
第四章 池を作る
第五章 <フライ教室>の主役たち
第六章 フライロッドを作る
第七章 新しい<フライ教室>へ
第八章 夢はかなう
第九章 「そこらへんの川」の子どもたち
第十章 川は死なない
第十一章 移りゆく春
第十二章 「フライ教室」は眠らない
あとがきにかえて

抜粋
テレビやゲームの影響で子どもたちが自然に興味が持てなくなったなんて、わけ知り顔で言う人があるけれど、おんなじだ、子どもは。そういう見方しかできなくなった方がおかしいのだ。子どもはいつだって、未来だ。 (本文より)

川が、ぼくらの教室だった。本当にあった環境教育のドキュメント|宇奈月小学校フライ教室日記|画像クリックで解説
『フライの雑誌』第99号「はじめてのフライロッド!」|本村雅宏さん寄稿
『フライの雑誌』第99号「はじめてのフライロッド!」|本村雅宏さん寄稿