阿佐谷の金魚も揺れる。

浮き世をしのぐには自分のフォームを見つけることだ、というようなことを阿佐田哲也氏が書いていた。若いころはフォームができていない。外野からもあれこれ言われる。若いから影響をうけやすい。よけいにぐらぐら揺れる。

20代のはじめから30代なかばにかけて、中央線沿いを転々と移りながら暮らした。そのなかでいちばん長く住んだのは阿佐谷だった。20代のはじめから30代なかばにかけての男によくあるようなことがわたしにもあった。ぐらぐらしていた。今もってぐらぐらしているが、その頃は若いぶん、ぐらぐらの幅は広く、深かった。

阿佐谷に「吐夢」というお店がある。わたしをさいしょに連れて行ってくれたのはコジマさんだ。コジマさんについては『フライの雑誌』第101号から105号の「みいさんに会いに」に書いた。大人のお店だなあと、20代だったわたしは思った。そこから今までだ。

ぐらぐらしていたわたしにとって、吐夢はごくごくゆっくりと、いつ行っても同じリズムを刻んでいるメトロノームだった。いやちがう。垂直・水平を示してくれる墨出し器か。もっと直截に言えば精神安定剤だ。カウンターに座ればあら不思議、心拍がすうっと落ち着く。お前さいきん少し調子づいているようだね、とカウンターの上の地球儀が意見してくれる。(ああそうかもしれない)と、曲がった軸を修正する。吐夢の安定があったから、自分のぐらぐらも見えた。

吐夢はジャズ屋として全国的に有名な店である。店内には普通にバードやマイルスやミンガスの名盤LPがかかる。MJQだってかかる。たまに全然知らないかっこいいフリー系もかかる。でも店主の和子さんにジャズの話題をお願いしたことは、開店当初からこっち通ってきた中でほぼない。吐夢ではジャズの話をしているほかの常連のお客も見たことがない。たまに一見さん風が入ってきて、なんやかやとジャズの話をしたがるときはある。そういうとき、和子さんはカウンターの中の仕事が忙しくなる。

釣りの雑誌を作っているわたしは、からかい半分で釣りの話題を振ってくる人の相手をするのは、けっこうめんどくさい。「フライフィッシングって、あれですよね、竿をぴゅんぴゅんと。」。ああはい、そうですそうです。「ブラッド・ピットですよね。」。そうですそうです、よくご存じで。

では吐夢でわたしは何を話したかというと、阿佐谷に生息する幾多の怪人たちの目を覆いたくなるような行状とか、古い喫茶店を潰して新しくできるマンションやチェーンの居酒屋への呪詛とか、ふるいマンガの話とか、さいきん観た映画の話とかである。店主の和子さんは芝居と映画と、当世の中央線系役者事情にとてもくわしい。が、嗜好が偏っている。巨額予算を突っ込んだハリウッドのバカ映画が好きなわたしが、和子さんに映画の話に乗ってもらうのはなかなか難しい。

何年か前、当時巷で大いに話題になっていた「アバター」を有楽町で観た帰りに吐夢へ寄った。「いまアバター観てきた」と言ったら、ひとこと「ふうん。興味ない」と言われて終わった。先週行ったときには、和子さんは「あたしは『シン・ゴジラ』と『君の名は。』観たら負けだと思ってるから。」と、半分笑いながら断言していた。『この世界の片隅に』は観に行きたいかも、らしい。わたしはそこで、「こうの史代さんはいいですよね。おれぜったい泣くだろうからどうしようか迷ってるんですけど」と言って、会話が成立した。よかった。

わたしは人見知りなので、吐夢のカウンターに座っていても、隣りのお客さんとは長年まったく口をきいたことがなかった。喋るのは和子さんとだけ。2015年に『葛西善蔵と釣りがしたい』を出したときに、吐夢へ持って行って渡した。和子さんが面白がってくれて、お店の棚で販売してあげるよ、ということになった。次に行った時、平積みした本の脇に、和子さんがダンボールの切れっ端に手書きしたPOPを添えてくれてあったのを見て、わたしはこころで泣いた。和子さんが薦めてくれてわたしの本を読んでくれた、何人かのお客さんと知り合いになった。お店の中で会えば挨拶して、たのしくお話しできるようになった。少し遅くなったが社会的に正しい40代になれたと思う。吐夢と和子さんのおかげだ。

吐夢が来年の3月はじめで閉店するという。それを知って、そわそわするような、せかされるような、いてもたってもいられなくなるような、若いころの感覚が久しぶりによみがえった。精神不安定剤を大量に嚥下するとこんな感じなのかもしれない。胸がドキドキしてきて、頭がぐらんぐらんと揺れて、やばい、どうしようと思った。

でも、今のわたしは、昔とはちょっと違う。いくらぐらぐらしたって、自分で制御するやり方をちゃんと知っている。それは吐夢に教えてもらった。

だから大丈夫です。

ダンさんの色紙。
ダンさんの色紙。1995年春。
2015年、開店20周年。
2015年、開店20周年。
阿佐谷の金魚も揺れる。
阿佐谷の金魚も揺れる。
『葛西善蔵と釣りがしたい』(2013年5月16日発行)
『葛西善蔵と釣りがしたい』
『フライの雑誌』第110号|特集◎ベストなベスト 理想のフライベストとその中身 The Best of FLY VEST
『フライの雑誌』第110号|特集◎ベストなベスト 理想のフライベストとその中身 The Best of FLY VEST
[2017『フライの雑誌』オリジナル・カレンダー]
こちらの[2017『フライの雑誌』オリジナル・カレンダー]は第110号からの新しい定期購読の方へ差し上げます。第110号に同封してお贈りします。よく釣れます。※残り少なくなりました。なくなり次第終了します。