他人さまのことは言えないが、ねこもしゃくしもブログでどうでもいい日常をご開陳する時代だ。
表現のジャンルはなんでもいい。とくに文章書きの立場の人がわかりやすい。会ったことのない相手がどういうジンブツかを知りたい時、いちばん分かりやすい方法がある。2011年3月11日の前後の日記を読めばいい。
とりあげる内容、言葉のトーン、社会への接し方、それぞれの変化と落ち着かせどころに、これまでの人生で育ててきた相手の人格が出る。気になる誰かの過去ログを遡上して、がっかりしたりうれしくなったり、そういう対応もあるかと感心したりする。
あえて触れないのも、もちろんひとつの見識だ。
大地震が起きても原発が噴火しても、政治家がうそをついても(政治家はうそをつくものだが)、たとえ地球がまっぷたつに割れたとしても(可能性がないとはいえない)、ただ淡々と昨日までと同じ自分の日常をすごす身の処し方がある。少なくとも、こころのなかは淡々と。
そういうジンブツにわたしはなりたい。
山や川や湖や海の生きものたちは、おそらくそういうジンブツである。ある日突然、自分の棲み家にコンクリートや放射能が流れ込んできても、昨日とおなじ今日を暮らす。そして死ぬ時に死ぬ。
釣り人は、昨日とおなじ今日はないと知りながら、昨日とおなじ(あるいはちがう)今日を釣りたがる。昨日と今日がおなじでもちがっても、けっきょく釣りすることにはかわらない。
そういうジンブツにならわたしもなっている。