罵倒するのは難しい

最近近所に開店したおそば屋さんに初めて行った。日本酒の商品名入りの安っぽいスタンド看板に「手打ち」と書いてある。わたしは子連れだ。

中へ入ると、フロアの真ん中に小さな真四角のハイテーブルが三つ、放り投げたように置いてある。男子校の文化祭のセンスのないカフェみたいな内装だ。このそば屋は夫婦もので経営しているらしい。妻がお運び、夫がそば打ちのようだ。せいろを二枚頼んだ。

わたしたちの後から、家族連れのお客が4名で入ってきた。暑い日で子どもがすぐに水を飲んでしまったらしく、「すみません、おひやもっといただけますか」と厨房へ声をかけた。すると、奥から旦那の(追加の水は金とれ)という声が聞こえた。お運びの妻が出てきて、「追加のお水はお金をいただきます」と言った。なかなかすごい店だな。家族連れもびっくりした様子だ。

厨房の奥から旦那が妻をひどく怒りすえている声が聞こえてきた。何を失敗したのか、妻は(すみません、すみません)とひたすら謝っている。どんな失敗をしたにせよ、奥さんをそんなに大声で怒鳴らなくてもいいじゃないかとわたしは思う。お客に丸聞こえだし。

半べそをかいた奥さんが、わたしの頼んだせいろを持ってきた。「せいろそばでございますっ」。そばの水を切っていない。そばがせいろからずるっとテーブルへ落ちた。ウォーキングデッドの腐ったゾンビの頭部のようだ。テーブルにはお箸が置かれていない。せいろを持って来た奥さんは、そのまま奥へ引っ込んでしまった。あの、お箸をください。

(もうあたし、あったま来た!)

厨房から妻の怒声が聞こえた。旦那の叱責にキレたらしい。

(なんだとコラ! 誰にもの言ってるんだ)

夫婦で交互に口汚く怒鳴り合っている。わたしは、

「あの、お箸ください」

お箸がないと食べられない。そば屋の夫婦の口論はどんどんエキサイトする一方で、ぜんぜんお箸を持ってきてくれない。厨房へ3回声をかけて、無反応で10秒たってわたしもキレた。

「お箸くださいってずっと言ってるじゃん。厨房で話してること、こっちに全部聞こえてるんだよ。もういい、金だけ払って出ていく」

なんかわたしは大興奮してしまって、そのあとの言葉が出てこない。となりのテーブルの家族が自分たちが放り込まれた状況にびびっているのが分かる。彼らはただおそばを食べたかっただけだったのだ。わたしだってそうだけど。腹を空かせたわたしの子どもが手づかみでそばを食べ始めたので、その手をピシッと叩いた。

そば屋の夫婦は厨房でつかみ合いの取っ組み合いを始めたらしい。モノが飛んで壁にぶつかる音、食器が割れる音、ガラス扉がびりびりする音などが聞こえてくる。トムとジェリーみたいだ。わたしにお箸が出てこない。わたしは厨房へ聞こえるように大声でののしった。

「おまえの店はこんな餅みたいなそば出しやがって。いや、餅なんて言ったら餅にきのどくだ。泥水みたいなそばってとこだ。おれはご近所のものだけどな、ご近所の皆さんに言いつけてやるからな。本当言うとおれはだな、おれはミシュランの覆面調査員で...」

なにを言ってるんだわたしは。それ以上罵倒の言葉が出てこない。イライラする、うわーッ、で目が覚めた。ひどい朝だ。なんで朝からそば屋とけんかして目覚めなければいけないんだ。息切れしている。

「いやあ、ひどいそば屋だったよ」。天井を向いてハアハア言いながら、川の字の一本向こう側の布団にいるうちの人へ言った。すると半分寝ぼけたうちの人が布団に潜ったまま、「それはたいへんだったね。むにゃむにゃ」とねぎらってくれた。わたしの隣には、そばを手づかみで食べようとした子どもが直角になって寝ている。足がわたしの顔へくっついている。その足をピシッと叩いた。

あんなそば屋へは二度と行きたくない。だれかを罵倒するのは難しい。言い足りなくてほんとにストレスだ。

雑誌の入稿の締め切りが近づいてくると、色んな夢を見る。

「お箸ください」のお箸って、未着原稿の暗示なのでしょう。

ていうか、まんまじゃん。

葛西善蔵と釣りがしたい
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