秋の釣りにはよい思い出が少ない。

かすかな記憶をたどってもこんな具合だ。

秋田の本流へひとりで行き、型は小さいけれどきれいなヤマメの入れ食いになったのが四五年前の秋だ。晩に泊まった商人宿で出してもらったキノコづくしの夕食が、悶絶するほどおいしかった。

北海道の湖へひとりで行き、25ヤード先の波間へ浮かべたマドラーミノーに、ゴボゴボッと50センチオーバー(希望)の野生ニジマスが連続で飛び出してきたことがある。もちろんすべてフッキングできなかった。キャンプ地のコッフェルで焼いたジンギスカンがしみじみとおいしかった。

晴れ男を返上するような大荒れの台風に直撃された。町外れのホテルの部屋でひとり、「これで今回の釣りもおしまいか」とあきらめていた。すがる思いで風裏の河口に行くと、フレッシュな銀ぴかのアキアジが列をなして遡上を待っていた。誰にもじゃまされずに釣りまくったあと、ホテルでたべたサンマの塩焼きが、おいしいはずもないのに素晴らしくおいしかった。

よい釣りを思い出そうとして、ひとりだったことと、おいしかったことが共通していることに、自分の釣りの根っこがあるのかもしれない。

私は頭が悪いくせに釣り日記というような高尚なものをつけない。よかった釣りの記憶もわるかった記憶も、ふとした弾みに顔を出し、峰の霧が風に吹かれるように去っていく。むりに思い出そうとしても、消えたり浮かんだりでつかみどころがない。

釣りという浮世離れした遊びに耽るには、すべてを記録に残してやろうとギンギンに身構える姿勢は、なんとなく似合わない。他人様には「写真撮っておいてくださいね!」とか念押しするくせに、言っている本人は職業意識に欠けている。そんなことでいいのかと思うが、そんなことをずっとやってきてしまった。

先々週は長野の山奥でイワナを釣り、先週は岐阜の高原でアマゴを釣り、昨夜は近郊の渓流でキャンプを張った。来週は南国でカマスを釣る。そろそろ富士五湖のワカサギも気になる。記憶にも記録にも残らない釣りが延々とただ茫漠とつづく。まったく非生産的な、かけがえのない日々だ。