昨日、北関東の管理釣り場へ行った。関越道をひた走る車の中でお供の5歳児が「今日はサクラマスを釣ろうかな」と、ふざけたことを言った。以前私がどこかの釣り堀からサクラマスを持ち帰ってきたのを覚えていたらしい。
最近、サクラマスを目玉魚種として放流している管理釣り場が各地に増えてきた。サクラマスとヤマメは本来同じ魚である。海や湖へ下って大きくなればサクラマス、そうではないものがヤマメというシンプルな分類で大きく間違いはない。
管理釣り場で「サクラマス」と銘打たれて放流されている魚の出所はそれなら海なのかというと、そんなはずはない。以前とある漁協に取材したら「サクラマスの親魚からとった卵を育てたからサクラマスなんです」という説明を受けた。この返答は間違いではないが正しくもない。なぜならサクラマスが産んだ卵からかえった稚魚のすべてが海へ下るわけではないからだ。稚魚が海へ下るか川へ残るか、分岐のくわしいシステムはじつはまだよく分かっていない。
釣り師の視点から言うと、サクラマスは一種独特の荘厳さを感じさせてくれる魚だ。海から遡ってきたことを主張する銀白の体色、透明感のある鋭い面構え、自分が産まれた川にしか遡上しない頑固さ、死ぬことが運命づけられている川にそれでも帰って来る儚さに、いっそうの憧れを募らされる。佳魚薄命まるで夏目雅子のようである。サケ科魚類の中でいまだにもっとも謎の多い魚のひとつでもある。人の手から逃れつづけている神秘のマス、それがサクラマスだ。
流行の養殖サクラマスは、そんな天然もののサクラマスとは味も見かけもあふれでるオーラもまったく別物である。大海原を自分の力で駆け巡って大きくなって帰ってきた天然もののサクラマスに比べれば、生まれた時から人間に管理されコンクリートの池で育った海を知らないサクラマスは、安っぽいCGみたいなものだ。それでもそこらの釣り堀で〈サクラマスみたいな魚〉が釣れると、私みたいな釣り師はちょっとうれしかったりする。すこし哀しい。
「今日はサクラマスを釣ろうかな」と軽々しく5歳児が口にした瞬間、以前自分が釣り堀で釣って持ち帰った魚を「ほらこれがサクラマスだ」などと家でつい自慢してしまっていたことを、苦々しく思い出した。教育上まったくよろしくない。大失敗だった。だから「いいかよく聞け」と前置きし、「海を知らないサクラマスは本来サクラマスとは認められない。なぜならば・・・」と、両者の大いなる違いについて、5歳児にも分かるようにこんこんと15分くらい言い聞かせた。
なにが本物でなにがニセモノかを自分の目で見極めること。それは人生全般に通ずるもっとも大切なフィロソフィーであり、荒波をくぐり抜けて生きぬいてゆくチカラの根幹になる。君が大きくなったとき、海を知らないサクラマスみたいな情けない大人になってほしくない。
「わかったか!」
「わかった」
ほんとうにわかったのかお前は。バックミラーのなかで鼻くそほじるな。