【公開記事】水口憲哉氏インタビュー 「やせがまんが日本の釣りを救う」

フライの雑誌-創刊号(1987)初出、水口憲哉氏インタビュー「やせがまんが日本の釣りを救う」を公開します。

当時と現在の釣りと釣り場をとりまく状況は激変しています。

1980年代後半、日本の川と湖は、釣りブームのまっただ中でした。増えつづける釣り人と内水面漁協との軋轢が各地で話題になっていました。2019年現在、釣り人は減少しています。内水面漁協のとどまるところを知らない弱体化は、水産庁が問題としているところです。

記事中で話題になっている北海道・東北のサケマス孵化放流事業は、時代の流れにともない縮小しました。ブラックバス害魚論は議論がおきざりのまま政治的な力学により、特定外来生物法というかたちで法律の網がかけられました。

しかしながら、本記事の根っこにある〈やせがまん〉の概念は、いつの時代でも釣りの楽しさ、釣りの喜び、釣りという行為の本質をとらえるキーワードになりえます。また、人と川と魚との関係性への言及には、現代と未来においてよりいっそう注目される指摘が含まれているようです。

ききては『フライの雑誌』の創刊編集発行人、中沢孝です。

(『フライの雑誌』編集発行人 堀内)

やせがまんが日本の釣り場を救う

人間が手を入れ、活かすことを考えないと、
川そのものがダメになることもある︱

水口憲哉氏インタビュー

ききて 中沢孝(『フライの雑誌』編集部)

■ 漁業者も釣り人もタガがはずれつつある

中沢 川の水が変わり、魚も減ったり消えようとしている。釣りという「遊び」を長く続けて楽しむには、水をきれいに保つことと同時に、魚類資源の管理という考え方が必要である。しかし、水を汚し、川をつぶし、魚を乱獲するのもみな人である。問題は「魚と水と人の関係」なのだ、という観点から内水面の釣りと釣り場の状況について、水口さんはすでに十二年ほど前に釣り雑誌にも活発に書かれていました。その頃と比べて今の釣りと釣り場をとりまく状況は、変化していると思いますか?

水口 内水面漁業と釣り人の関係は全体的にみれば横這い状態できていて、大きくは変わっていないと思いますが、どちらかというと分極化しながら悲しい方向へきている気がします。

ある年令層の人たちを中心に上流域の渓流釣りは、フライフィッシングも含めて当時より増えたと思います。一方でルアーでブラックバスを釣る人も増えてきた。ブラックバス釣りはある意味で渓流の有料釣り場のニジマス利用と同じで、釣り堀化の傾向なんですが、上流域の渓流釣りと下流域溜池のブラックバス釣りの中間部分、その中流域の部分が空洞化してきている。これは中流域の漁業ができなくなったことと対応してるんですね。

アユ釣りにしても、そのおもしろさはもう昔語りのように釣り雑誌でも扱っている。アユが自然に海からのぼってきて、釣り味もよく、食べてもおいしいなんて状況がなくなりつつあるわけです。だから四国の四万十川【ルビ/しまんと】のアユなど天然記念物的に注目されたりする。ルアー釣りでも人口が増えるにつれて、海のスズキを釣ったり、トローリングをはじめたりしてますね。日本人が豊かになって、釣りが変化してきた。

以前にも書いたことがあるんですが、釣りはそもそも「やせがまんの遊び」だと思うんですが、それが希薄になって、少し言葉が悪いんですが「げすな金持ちの遊び」になりつつあるように思える。とくに海釣りで激しいように思えますね。

中沢 「げすな金持ちの遊び」とは、お金にものをいわせて、とにかく魚を簡単に効率よく釣るための道具を揃える、たとえば最新の魚探とかを迷わず使うことをさしていると思いますが、今の日本の沿岸漁業に対する遠洋漁業みたいなものですか。

水口 まったく同じです。沿岸漁業も漁場と魚を長もちさせるには〈やせがまん〉が必要で、いわば自分たちを痛めて資源を長もちさせてるわけです。

いい例が二つあります。一つは釣り餌です。漁民は釣れる餌をよく知ってます。たとえばユムシとかゴカイの仲間のアカムシなどよく釣れる餌ですが、釣れすぎるという理由で自分たちで禁止している漁村もあります。そんなところでオキアミを使うとたいへんなことにになる。オキアミは何かの理由で魚が非常に好むわけで、釣れすぎる餌なんです。釣り人がそれを使えば、漁民は当然それを禁止しろということになる。漁民には「釣れすぎるのはマズイ」という意識があるんです。

■ 利息だけで暮らす。元金はそのまま

もう一つの例は、アワビやサザエを獲る場合で、大きく分けると三つの方法があります。まず船から箱メガネで覗いてサオ先につけたカギで獲る方法。次は自分で潜って獲る方法。三番目は器具を使って潜水で獲る方法。これはスキューバとかヘルメット潜水です。

日本でアワビを最初に大量に獲ったのは、今から百年以上前で、外国からヘルメット潜水を導入して獲ったときなんです。千葉県の機械根(いすみ根)というところで、機械を使ってアワビを獲ったのでその名がついたんですが、タイ漁でもいい漁場です。当時二、三年でもの凄い漁獲高になりました。しかし、その二、三年をすぎるとバタッとダメになった。今ではいちばん獲れたときの一割のレベルで横這い状態です。百年も前に機械で漁場をつぶしてしまったわけです。

ところが、ある一方で箱メガネで獲っていた方は、今も漁獲高が変わっていないんです。箱メガネといっても、古く板ガラスが入る前は、ナタネ油やクジラ脂を使ってた。ナタネ油やクジラ脂を口に含んで噛み、海面にパッと吐く、するとしばらく水面に油膜ができて水中が覗ける。それでアワビを獲ってた。せつないというか、おもしろいというか…。そのうち板ガラスが入ってきて箱メガネになったわけです。

海に潜らず船上から一つずつ獲る、この方法は岩の下にいるものは獲れない。常に岩の上にでてきたものしか獲らず、銀行預金の利息だけで暮らすようなもので、元金はそのままにしてある。

ところが潜りだしたわけです。ウェットスーツを着れば寒くないですから何時間でも潜れる。一度の漁で何回も潜れる。対してこれを着ないと体が冷えて、一日に潜る回数や時間は限られる。つまり、冷えてしまう自分の体が自己抑制のハカリになっているわけです。そうしておけば漁場は長もちする。

釣り人の世界もかつては同じだった自己抑制に相当するものがどこかにあった。しかし、今は漁業者も釣り人もそのタガがはずれつつあるようです。自己抑制などというと、何か精神運動みたいに思われるかもしれないですが、沿岸漁業に限っては、自己抑制というか、やせがまんの漁が結果としてお金儲けにつながると、私はいろいろ調べたうえで主張してるんです。

さきほどの機械根の話のように、一時期ワッと獲れてその後極端にダメになる場合と、箱メガネで少量ながら安定して獲ってきたのを比べると、トータルでは箱メガネが数値的にはっきり有利なんです。だから、漁場も釣りも、今ダメになっていく漁場や釣り場をなんとかしようとするとき、モラルとかゴミを捨てるのはやめましょうなんていうよりも「やせがまん」を守り続けることをいうべきです。

ところが釣り人にはそれが通じにくい。ある釣り人がいつも同じ川や海へ行き、他の人はこないのであれば「やせがまん」もできるかもしれない。しかし、釣り人は気ままにいろいろな川や海へ行く。そこで「やせがまん」をしろといっても無理です。だからほんとうは釣り人にも言いたいのだけれど、けっきょくモラルで言うしかなくなっちゃう。しかしモラルを力説しても効果はない。迫力がないんですね。

■ 魚の価値は時代によって移っていく

中沢 北海道はサケの増殖が盛んで、川へ戻ってきたサケは下流で獲られ、フ化場へ運ばれる。工場生産みたいなもので、川全体の生産力は必要とされていない。水が利用されているだけです。そしてサケを重視するあまり他の魚は「害魚」とされています。サケの捕獲場では他の魚の遡上も止められてしまう。釣り人には重要なニジマス、イワナ、アメマス、イトウなどが駆除されようとしている。それ以上に重要なことは、川自体に目がいかなくなって、川が川でなくなることだと思うのですが?

水口 価値観の問題でしょうね。もう少し大きくみると、資源の配分の問題でしょう。サケほど複雑に配分問題が争われている魚はない。日本のサケはシロザケをさすわけですが、もともと北海道の川で自然産卵したシロザケがいたとすると、フ化して北太平洋へいきます。北太平洋へいった時点で日本、アメリカ、カナダ、ソ連の四カ国で配分の問題がでる。最近は「沖獲り」をやめようという流れになってきています。最近サケの回帰率がよくなってるでしょ。これはフ化放流技術がよくなっただけの理由でなくて、沖で大量に獲っていた大手水産会社の獲る量が減ったからで、沿岸の豊漁は当然の結果なんです。

日本沿岸に戻ってくるサケは北海道から本州へまわるのですが、北海道と本州の配分問題もあります。本州ではさらに太平洋岸で岩手県と宮城県の配分がある。それぞれ回遊コースの上方で獲ればより獲れる。北海道沿岸で獲れるメヂカ(編注:銀色のサケで、食べてうまく、商品価値が高い。目と目の間がせまいのでメヂカという)は恐らく本州へ回遊してくるべきサケなんですが、途中で岸寄りに動いたときに獲られているんです。

そんな具合に、より先で獲っていく配分の問題がサケにはつきまとっている。だからいままで法に縛られていた釣り人たちが、サケは豊漁続きなんだから、オレたちにも釣らせろ! ということにもなる。

もう一つの問題は、川や海を利用するとき、とくに内水面では、何を利用するか? どういうものに価値をおくか? それによっていろいろな種類の魚に対する接し方がちがってくる。いい例がワカサギです。

アメリカではエサになる魚として扱われていて、人は食べない。ところが日本では大切な魚で、輸入してるくらいです。しかし一方、十和田湖や猪苗代湖では湖の富栄養化がすすんでワカサギが増え、同じプランクトンを食べているヒメマスに影響がでているんです。そうなるとヒメマスに価値をおいているところではワカサギが「害魚」になる。青森県では新聞紙面でワカサギがやっつけられてる。また一方中部地方では、ブラックバスがワカサギを食べるから、ブラックバスが「害魚」になる。それぞれの場合を釣り人からみると、また話がちがってくるわけで、魚に対する価値観だけの問題なんです。

だから北海道の川でサケやサクラマスに価値がおかれれば、その他の魚は「害魚」になるわけです。しかし、そういう特定の魚に価値をおく考え方はもともと日本にはなかった。ワカサギでもタナゴでも等しく価値を認めてた。それが日本の魚に対する価値観だった。つまり、釣り人と漁業者のぶつかり合いも、価値観のぶつかり合いでしかないわけです。

■ 魚相や生物相を単純すると、めざすものも減ることもある

中沢 北海道のサケ増殖事業と「害魚」の関係にみられるような川利用は、生態系という観点からすると、どう考えられますか。

水口 ある魚を重視するあまり、他の魚や生物を殺してしまうことになると、そこで生態系という考え方が重要になってきます。全体としてある部分をへこますと、それによって他の部分はどうなるか? 魚相や生物相を単純にしてしまうと、めざすものも減ってしまうことだってあるわけです。

私が海や川を活かすというとき、少し乱暴にいえば、「自然保護」という考え方は入ってないんです。自然環境をある程度維持することでそこから何かを得る、それが海や川を活かすことになると考えるからです。その関係をうまく保っていけば、結果的に自然保護になるはずです。しかし、いわゆるすべてをそのままにする自然保護となると、それを活かして利用することはむずかしい。そのあたりのことは一般的にゴチャゴチャに論議されているように思います。

一方、そのことは別に、生態系という考え方は重要です。アメリカではベニザケを増やそうとするとき湖で他の魚を全部薬で殺したりもしますが、ブラックバスでは利用の歴史が長いですから、人工的に釣り場をつくるときは、日本のウナギ養殖池のようにまず池づくりをし、池に肥料をやってプランクトンをつくる。そこへブルーギルのエサになる小魚を入れ、次にブルーギルを入れる。そして最後にブルーギルを食べるブラックバスを入れるわけです。ブラックバス増殖にあたり、魚種を単純化させようとするのではなく、自然状態に近い複雑な組み合わせを考えている点が重要です。

■ どこかで話がおかしくなった害魚論

単純化するなら養殖すればいい。なお単純化するならエサも与えず、魚を入れたらすぐ釣ればいい。でもそうなると釣りではなくて「回収」でしょ。さらにいけば肉のかたまりを買ってくればいいわけで、釣りにいかなくてもいいことになる。

その昔、私も卒業論文でサケの稚魚が他の魚に食われないための研究として、サケの稚魚に学習させることをやったんです。何割かの稚魚に他魚に食われないための学習をさせて、その稚魚をリーダーとすることを考えたわけです。金魚を使って基礎実験しました。カジカそっくりのモデルをつくり、それに電線を巻きつけ、サケの稚魚がそのそばにいくとピリッとくる。そんな訓練をさせたわけです。でも考えてみれば実際に本物のニジマスでも放した方が訓練になるわけですよね。さらに考えれば、自然の中で訓練した方がいい。それに自然状態で生きている稚魚がいれば、なにも人工的訓練したリーダーを混ぜなくてもいいわけで…。思えばバカらしい実験なんです。

つまり、人工的にすすめることの目標は、最後には自然の状態にいきつくということです。そうなると、人が自然をつくることはできませんから、サケの稚魚を補食するもの(害魚)を駆除した方がはやい、となってしまう。しかし、ほんとうに捕食者がどんどん稚魚を食うとしたら、その昔サケがいっぱいいたことの説明ができない。昔から捕食者はいたわけですから。どこかで話がおかしくなったから、捕食者が問題にされるわけです。

■ むずかしい問題が起こると、どこかに敵をつくってそのせいにする

人間社会でも、何かむずかしい問題が起こると、どこかに敵をつくってそのせいにする。よくあることです。サケにとって昔から敵はいたんです。しかし、サケは種族を維持してきた。そこを土台にして川の中のさまざまな生物の組み合わせを考えるのが、生態系を︱、という考え方なんです。

北海道の害魚問題も、サケか! アメマスか! という対立で考えないで、生態系からみれば本来その川にいる生物は漁業者にとっても釣り人にとっても必要なんだ、という観点が必要なんです。で、釣り人は同時に自分たちにとってこういう魚に価値がある、と主張すべきです。それをただ「生態系を守れ!」とカラ念仏のようにいったのでは通じない。

中沢 最近釣り人の自主放流が盛んになってきているんですが、よく論議されるのがイワナの純系の問題とか、ヤマメも他の水系のものは入れるべきでない、とかです。とくに専門家はそれを強調しているように思えます。

水口 本来、生態系が乱れると言うときは、川にダムができたとか、もっと大きいレベルでそこに棲む魚が変わっていくとか、環境全体が大きく変わっていく場合です。アマゴがヤマメになったとか、他水系のヤマメが入ったくらいでは、生態系が乱れたというほどではないと考えます。その川にはこういう魚が純粋なんだというイメージがちがってくる、その程度の意味でしかない。

アマゴがヤマメになったり、その逆になれば、自然分布の点ではマイナスになります。しかし、きちんと記録をしておけばたいした問題ではない。というのも、われわれは知らないだけで、今の日本の淡水魚の分布なんて、いろいろ手を入れた結果なんです。それを知らないで、今の状態が絶対純粋みたいに思ってるでしょ。そのあたりはキチンとしないと。

■ 日本列島では自然に手をつけないというかかわり方は、ほとんどなかった

たとえば滋賀県の琵琶湖、秋田県の八郎潟など、水産的にみて大きくて重要な水域にはすでに何種類もの外来魚が移殖されています。その結果、その魚は残ったり、消えたりしています。ホワイトフィッシュというサケ科の魚がいるんですが、それも何種類も入ってる。秋田県で四年ほど前に自然繁殖が確認されてます。このホワイトフィッシュだって外来種ですから、生態系で厳密に考えれば問題になるはずです。しかし誰も問題にしない。むしろ水産的にうまくいったことになるわけです。勝手なもんです。

生態系という言葉は、「手をつけない自然保護」と結びつけられやすい。しかし、日本列島では自然にまったく手をつけないというかかわり方は、ほとんどなかったと私は考えてるんです。たいていの自然には手が入っているんだから、その手の入れ方が問題で、そこから自然をどう活かすかが問題なんだと思います。川にしても活かすことを考えないと、放っておくと川そのものがダメになることもあるわけです。

■ いい釣り場とか自然の概念は好みの問題

中沢 将来を考えるとき、いつまでも釣りを楽しむには、釣り人はまずどういう立場で釣りと釣り場を考えるべきだと思われますか?

水口 人は時代と共に変わっていきますから、いい釣り場とか自然の概念も変わっていきます。好みの問題なんです。

たとえば食べものとしてのマグロがいい例です。日本では江戸時代からマグロを食べていた。マグロも沖で獲らなければ岸で獲れるわけですから。定置網で獲ってました。そのころトロは貧乏人の食べもので、赤身は金持ちの食べものだった。仏教思想からケモノの肉は食べないということと絡んでいるわけです。ところがいつのまにかトロが金持ちの食べものになって、価値が逆転した。これは畜肉を食べる西欧文明の影響で、トロはビフテキに近いわけです。でも、その変化の良し悪しを論じてもしょうがない。

フライフィッシングも西欧的なものですけれど、これは独特な感じがします。ある意味で日本の伝統的な釣りと同じように自然と接していて、性格が似ていて、やせがまんの釣りで、自然という対象に従う釣りのように思えます。だからフライフィッシングを好む人には、今は悩み多き時代なんでしょうね。イギリスでは古くから『釣り人のための植物学』なんて本があるくらいですが、まさに生態系全体をみようとする発想です。魚を釣るのに魚が食べる虫を知ろうとする。そしてその虫はどういう植物に付いて、植物はいつ増えるか、といった具合ですべて絡めて考えようというわけですから。

実は日本の沿岸漁業でも本来は同じで、三年ほど前、房総半島でカツオがよく獲れたんですが、そのときビックリしたことがあるんです。亡くなられた宇田道隆さんの『海と漁の話』という本をたまたま読んだら「カツオの獲れる年には、よくグミが成る」と書いてあった。実際その年はグミがよく成ってたんです。偶然なのかもしれませんが、漁師はその類の話をいっぱいもってる。陸上の植物の変化を魚の成長や回遊や死と対応させて見ている。生態系全体をとらえながら漁をしているわけです。そういう知恵が釣り人に伝わらないまま、内水面漁業が衰えていってしまったんです。今でも百年や二百年も前と同じ方法で漁を続けているところもありますが、全体からすると、そういう漁は次々につぶされていってます。たいていの場合、外からのさまざまな圧力が原因になっています。

庄内のクロダイ釣りは、何百年も延べ竿で続いてきたわけでしょ。それが釣り道具などがすすんで、様子が変わってきた。釣りでも漁でも、昔から続いてきた方法で今つぶされようとしている方法は、悪いものでも困る方法でもない、と言っておく必要があると思います。むしろ今広まりつつある方法を疑っておかないといけない。それをただ復古調に、昔はよかった、というのでは説得力はないですがね。

■「獲れない網」が支持されるのには訳がある

釣り道具、漁具を選ぶ話でいい例があります。私は「やさしい漁」という言葉を使うんですが、イセエビを獲るのに今でも木綿網を使っているところがあるんです。木綿網は腐りやすいし、不合理のようにいわれます。実際ナイロン網の方がよく獲れる。それでも現実として木綿網を使っているところがある。今ではナイロン網より木綿網の方が高価です。メーカーへ特注で十年分をまとめないとつくってくれない。でも木綿網を選んでる。

何も主義とかでなく、その方がいいと思ってるからです。何年か前に千葉県の太海【ルビ/ふとみ】でも木綿網の在庫がなくなって、ナイロン網に換えることも考えて他の漁村のことを調べた。そうしたらやっぱり自分たちの方法が資源を長もちさせるには有効だと結論がでた。そしてまた木綿網を十年分特注した。

なぜかというと、ナイロン網の方がイセエビがよくかかるのは事実ですが、マイナスもあるんです。ナイロンは反応もいいし、伸縮性もある。しかし海草などのゴミもよくかかる。漁師のあいだで「イセエビの刺し網は独り者はできない」とよくいわれています。朝あげて夕方また仕かけるんですが、その間に家族全員でイセエビやゴミをはずすわけです。それがたいへんで、その点木綿網は楽なんです。イセエビのかかりは少し悪いかもしれないが、ゴミもかかりにくい。

それに、イセエビがかかりやすいということは、網がよく締まるわけで、かかったエビが動くほど締めつける。つまり網をあげないうちにイセエビの元気がなくなっちゃう。ところが、木綿網で獲ったものは活きがいい。そのぶん商品価値も高いわけです。イセエビを長く安定して獲り続ける意味でも木綿網は有効です。一時的に獲れすぎると、かならずツケがまわってくる。

もう一つ重要なことは、ナイロンが腐らないというマイナス点です。腐らないというのは困るんです。なぜかというと、エビのかかった網が岩などにひっかかって破れたとします。残されたエビはいつまでも暴れて、漁場が場荒れする。網だけ残った場合でも、それに別のエビがかかる可能性が高い。これは釣り用のナイロン糸でも同じです。

これに対して木綿網は最後には腐るから問題が少ない。また、イセエビが獲れるような漁場では、海女(あま)さんが海へ潜るケースも多いわけで、彼女たちの命がかかってくる。海女さんたちは釣り人が残したナイロン糸も含めて、海を掃除してるんです。海を汚すな! なんてレベルじゃなくて、生命が危ないからなんです。

■ 何かの運動のためにそうしているのではない

木綿網漁は「やさしい漁」とはいえ、経済的にダメならそんなものは勧めません。しかし今の社会でじゅうぶん成り立っているんです。少々高くてもイセエビは売れている。木綿網を使っている人たちは、何かの運動のためにそうしているのではなくて、自分たちで考えて、実感してそうしてる。そのことをよく見て、大切にした方がいいと思うんです。釣りでもきっと同じでしょう。大きな時間の幅をとって考えても、実はそっちの方が経済的にも優れているということです。

中沢 釣り人がどんどん増えている現在、海でも川でも漁業権をめぐる制度が今後問題になってくると思うんですが、その点をどう考えられていますか。

水口 釣りと漁業、遊びと職業という関係を日本とアメリカで比べてみるとわかるんですが、日本では遊びとしての釣りが認められてきたのはつい最近のことで、それもまだまだです。アメリカではその逆です。だから法体系もそれぞれそうなってくる。日本では生産とつながって海や河川湖沼とかかわっている漁業者を守るために法律があるわけです。

最近は遊びとしての釣りにも権利があるんだという動きがでてきている。しかし、それには状況に応じた新しい法律をつくるなり、生産者用の法律を変えるなりしないと、いくらやっても水かけ論に終わってしまうでしょう。

基本は、漁業者も釣り人も自分たちの仕事や要望をキチンと主張したうえで、地域ごとにその地域の都合や漁業状況に応じた魚や水へのかかわり方を考えることです。そしてお互いどうしたら共通の土俵に立てるかをまずさぐり、その土俵のうえでものごとをきめていくしかないと思います。

(了)

初出:やせがまんが日本の釣り場を救う 『フライの雑誌』第1号/1987年5月
単行本『魔魚狩り ブラックバスはなぜ殺されるのか』(水口憲哉 フライの雑誌社 2005)収録

単行本『魔魚狩り ブラックバスはなぜ殺されるのか』

フライの雑誌-第116号 小さいフライとその釣り 隣人の〈小さいフライ〉ボックス|主要〈小さいフック〉原寸大・カタログ 全88種類|本音で語る〈小さいフライフック〉座談会|各種〈小さいフライフック〉の大検証|〈小さいフライ〉の釣り場と釣り方の実際|〈小さいフライ〉エッセイ 全60ページ超!
70年ぶりの漁業法改変に突っ込む|もっと釣れる海フライ|新刊〈ムーン・ベアも月を見ている〉プレビュー掲載
第116号からの【直送便】はこちらからお申し込みください 2019年2月14日発行

[フライの雑誌-直送便] 『フライの雑誌』の新しい号が出るごとにお手元へ直送します。差し込みの読者ハガキ(料金受け取り人払い)、お電話(042-843-0667)、ファクス(042-843-0668)、インターネットで受け付けます。第116号は2月14日発行

「ムーン・ベアも月を見ている クマを知る、クマから学ぶ 現代クマ学最前線」

ムーン・ベアも月を見ている クマポスター
ムーン・ベアも月を見ている クマを知る、クマから学ぶ 現代クマ学最前線 山﨑晃司著

ムーン・ベアも月を見ている クマを知る、クマに学ぶ 現代クマ学最前線 山﨑晃司著

フライの雑誌 第115号 水面(トップ)を狙え! 水生昆虫アルバム〈BFコード〉再考 | ゼロからわかる 漁協ってなんだろう 表紙写真 岩谷一
フライの雑誌-第114号特集1◎ブラックバス&ブルーギルのフライフィッシング 特集2◎[Shimazaki Flies]シマザキフライズへの道1 島崎憲司郎の大仕事 籠城五年
フライの雑誌 113(2017-18冬春号): ワイド特集◎釣り人エッセイ〈次の一手〉|天国の羽舟さんに|島崎憲司郎
○〈SHIMAZAKI FLIES〉シマザキフライズ・プロジェクトの現在AMAZON
フライの雑誌-第112号 オイカワ/カワムツのフライフィッシング(2)
フライの雑誌-第111号 よく釣れる隣人のシマザキフライズ Shimazaki Flies
フライの雑誌社の単行本新刊「海フライの本3 海のフライフィッシング教書」
島崎憲司郎 著・写真・イラスト「新装版 水生昆虫アルバム A FLY FISHER’S VIEW」
〈フライフィッシングの会〉さんはフライフィッシングをこれから始める新しいメンバーに『水生昆虫アルバム』を紹介しているという。上州屋八王子店さんが主催している初心者向け月一開催の高橋章さんフライタイイング教室でも「水生昆虫アルバム」を常時かたわらにおいて、タイイングを進めているとのこと。初版から21年たってもこうして読み継がれている。版元冥利に尽きるとはこのこと。 島崎憲司郎 著・写真・イラスト 水生昆虫と魚とフライフィッシングの本質的な関係を独特の筆致とまったく新しい視点で展開する衝撃の一冊。釣りと魚と自然にまつわる新しい古典。「新装版 水生昆虫アルバム A FLY FISHER’S VIEW」
『葛西善蔵と釣りがしたい』(堀内正徳)
『葛西善蔵と釣りがしたい』