ミドリガメを路上で見つけた市民が、自分で殺すべきかスルーするか悩んでいます、という人生相談レベルのマスコミ報道を見た。
全くばかばかしい。
脈略があろうがなかろうが、お上の定めには常に恭順な態度を示し、相互に監視するのが市民の義務、令に従って和となすべし。
と、あらぬ方向へ思考がプチ飛んだ。
通報だ。
駆除だ。
暑さのせいだ。
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ふと世の中を見渡して、前にもこんな感じがあったはずと思い返したら、2012年7月にこんなメモを自分が書いていた。
モヤモヤ感は年を追うごとにつのる。原発事故なんか忘れてしまったみたいな、忘れたがってるみたいな東京オリンピックに向けての挙国一致とか。
前にもあったはずじゃなくて、ずっとこんな感じだったんだろう。
それにしても世の中はどうにかなっちゃうんじゃないかと思うくらいに暑い。
(昨日は標高1500メートルの渓流で楽しくイワナ釣りをしていた自分がえらそうに何を言うか)
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大飯原発が再稼動する日の夜、ピケを張っていたデモ参加者がごぼう抜きで警察に排除され、原発がまた動き出した。原発を守らされている若い機動隊員や警察官も同じひとの子なのに、なんていうパセティックなロジックは60年安保のずっと前から使い回されてきた。ごまめ同士が手の届かないもどかしさは、いつの時代もかわらない。
どこがどう、だれがどうというわけじゃないけれど、今後原発がらみの直接運動は、一部では尖鋭化していくのかもしれない。尖鋭化させられるというべきか。
高橋和巳は1970年当時、ブント赤軍派との討論のなかで、赤軍派が主張する運動手法へ、こんなふうな当惑あるいは嫌悪を投げかけた。
向こうは好き勝手やっとるんだけれど、同じように好き勝手やることになったら、これは報復の論理であって、革命の論理じゃなくなるという辛いところがあるわけですね。
僕は別にどうしたらいいかわからんのですよ、わからんのですけどね、何かなあ、世代的な差もあるんでしょうね。僕はどうしても〈革命戦争〉という言葉をよう使わんのですね。それを言いかけるとモタモタとモタついてしまってね。(『世界革命戦争への飛翔』三一書房1971年・討論参加高橋和巳)みずから人間の鎖の一部となろうと思うのなら、せめて樺美智子さんのことくらいは知っていたほうがいい。「あした会社あるから帰るね」「おつかれっす」でいい。それが許されない状況と情況は、爆発しないで動いている原発よりいやだ僕は。まるで本末転倒だから。
ことを日本に限りますと、初めは石ころ、それからこん棒という形態にすぎなくとも、日本の構造から言って敵をずるずる引き出していくと、初めは機動隊、自衛隊にすぎなくともそのうしろからアメリカ軍、アジアの何とか軍とずるずると出てくると思うのですね。(前掲書)
自分は臆病で利己主義でへそまがりで、根っこは釣り人だ。いつでも川へ帰ることのできる人生がいい。狭間でふらふらしながら、自分の領分で、怒ったり笑ったり泣いたり、しごとしたりする。それがいちばんしつこいと思う。
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けれどゆうひは おまえとなかまの どくろをうつす
ガンバの冒険はいま見直しても子ども向けのアレじゃないな。〈はらからのためにぼくが死のう〉っていう物語だし。なんてったってノロイこわすぎ。結局最後はガンバたちの愛と勇気と友情で殺されるノロイだけど、そんなノロイにだってお母さんがいる。
「ムーン・ベアも月を見ている クマを知る、クマから学ぶ 現代クマ学最前線」