水辺のアルバム10
魚が痛みを感じるかどうかは私が決める
水口憲哉
(東京海洋大学名誉教授・資源維持研究所主宰)
フライの雑誌-第113号(2017年11月発行)掲載
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自分は医者にはなれないな
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NPO法人動物実験の廃止を求める会が、愛知県立時習館高校に働きかけてアカムシの解剖実習をやめさせたと一種の勝利宣言をしていた。
この会ではワカサギ釣りでアカムシをエサにするのを止めさせたり、キンギョに餌としてすくってきたボウフラを与えたり、蚊をたたいてつぶしたりすることに反対し、殺虫剤の使用中止の運動をやっているとは聞かない。ただ一点、実験動物にアカムシを使うなということらしい。
欧米で動物実験廃止の活動は過激になる例もあるようだが、アカムシの解剖実習中止にも取り組んでいるのだろうか。
解剖といえば、高校時代生物部の先輩たちが、どこからか捕えてきた野良犬を解剖したのにはヘキエキした。自分は医者にはなれないなと思った。
そうではあったが殺すな、止めてくれと反対して止めさせようとした訳でもない。そしてその後、野犬収容所での殺処分を中止させることに力を注いでいる訳でもない。そんなこともあったなと思い出しただけである。
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五代将軍綱吉は「生類憐みの令」で魚釣りを禁止した。
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アカムシや犬の解剖というと、アカムシの育ったボウフラや蚊を殺すな、犬を殺して切腹という〝生類憐みの令〟を思い出す。
これはきちんと文章になった法律ではなく、貞享から元禄までの二五年間(一六八五~一七〇〇)、五代将軍綱吉の時代に一三五回ほど出されたお触れをまとめて言っている。
粗製濫造というかこれらのお達しにはとんでもないものもあり、その結果、当時でもあり得ないようなことが起こっている。
○将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放しておいても構わない。
○魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止。
○ボウフラを殺さないために打ち水に注意せよ。
○犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止。
○魚釣りは〝厳禁〟。
○犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。
○犬殺しを密告した者に賞金三〇両と布告。
○鰻、どじょうの売買禁止。
○これらのお達しに対する違反者への処罰。
○鳥を殺して売った奉行所の与力・同心十一人が切腹、その子どもまでが島流し。
○病馬を捨てたとして陪臣十四名、農民二五名が神津島へ流罪。
○頬に止まった蚊を叩いた百姓は流罪、それを見ていて報告しなかった者も自宅謹慎。
なお、この騒ぎの最中元禄三年(一六九〇)に、人間の子も捨ててはならぬというお触れが幕府直轄領に出されたと「御触書寛保集成」に出ているという。
ただし、この時、生業(なりわい、職業)としての漁や猟は禁じられなかったという。魚や鳥を食べることを禁じたものでないところが意味深と言える。将軍も鶴や鯛を食べていたことだろうから。
ただし、遊漁としての釣りが禁止されたことは悩ましいところである。とんでもない御世であったと無視してすませられる話でもないようだが、ここでは一〇〇年後の時代に生きた小林一茶の句「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」が見せてくれる世界に遊んだほうが楽しい。
小さな生きものの存在をも認め、殺生をするなということでは同じようだが、この二つの世界は全くちがうように思う。
綱吉の世界は一律に上から目線のお達しで仕切り生類を憐れんでいるように見えるがまさにとんでもない。
一茶は小さな生きものに目を止めて、勘弁してよと言っているよ、一寸立ち止まって考えてみようという軽妙で楽しい世界である。
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食べる文化、殺す文化
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この一茶の境地に至るのは難しいとしても、私達は生きものへの対し方をここで少し考えてみるのがよいのかもしれない。あまりにも混乱してぐじゃぐじゃし過ぎている。
まず日本では無宗教と自認する人でも仏教の考え方に日常接する言葉や習慣を通して、無意識のうちに影響を受けている。
①殺生罪業論(殺生をするな)
②功徳論(生類は人に食べられてはじめて成仏できる)
③輪廻転生(人の生まれ変わりとしての生類)
④無益な殺生をするな。
この四つのキーワードで、そのいい加減さとかしのぎ方を見てみる。
①仏教的価値観の一つの中心でありこれまで広く浸透し定着しているので、漁業のさかんな地域や狩猟や屠殺に関係する地域など全国に鳥獣魚をまつる供養塔が建てられている。しかし、一方で、罪業論が、漁業者、屠殺、食肉、皮革業への差別や僧侶の精進料理へともつながっている。
②この罪業を回避しようという考え方が功徳論で都合のよい言い分である。
③インド仏教の考え方で人と他の生きものは生死によって入れ変わるので区別はない。
④有益であれば殺して食べてもよい。
これら全部の考え方、見方を総合したところから、人は他の動物を食べなければ生きてゆけないのだからそんなに気にしないで食べようぜという、食べる文化と言われる仏教文化の世界に私達は暮らしているのである。
これと全く異なるのが、人間中心主義にもとづく自然への対し方をするキリスト教、ユダヤ教の世界である。
「人間は自然を支配することを神から許されている」と信じ、自然環境は人間が利用するための存在であるし、もっとも進化した存在である人間が他の生きものを利用し、支配するのは当然という人間至上主義。
殺してはいけません、しかし食べさせてもらいますよというのとは異なり、殺すことは何も問題は無いただし人間はいけませんよという恐い世界、これを殺す文化という。
ただし、これでは人間があまりにも身勝手過ぎるということなのか、近代になって生物倫理とか言われだし、生きものを殺すことにけじめというか仕切り(区別)をつけるようになった。その目安が二つ。賢いかどうか。痛みを感じるかどうか。
クジラやイルカは賢いから人間のなかまに入れてやろう。しかし白人以外の人間は許されざるものなのだから排除してもよいという日本人にはわかりにくいというかわかりたくない考え方がでてくるので、捕鯨問題はややこしくなる。
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賢いからせめる気にもなる
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今回はその話ではなく魚は痛みを感じるかどうかのほうである。その本題に入る前に、これらの問題をややこしくしているもう一つの流れを知っておく必要がある。
仏教的生きもの観で鯨も食べ、日本人がのんびり暮らしているところにこの厳しいというかギスギスした、キリスト教的生きもの観が侵入というべきか導入というべきか不明だが、入ってきた。
これがやっかいなことには動物保護、動物愛護、実験動物の扱い方、生物倫理、動物福祉といった言葉と共に入ってきたこれらの外来の思想というか言葉を、舶来品として有り難がる人がいる一方で、外来生物と同じように考え、毛嫌いする人もいることである。
この流れの中で問題をもっとややこしくしたのが昆虫採集である。
近代的な昆虫採集は西洋伝来のものらしいが、これが広く子どもや大人にまで拡まったのは日本だけのことらしい。これはもともと日本人の中に小さきものを愛でて愛着を感じる気持ちがあるからだとも言われている。タナゴ釣りが愛好されるのも同じことか。一茶の子孫としての面目躍如というところか。
しかし、都市化と強い殺虫剤などの農薬の多用によって採集対象の虫たちが姿を消してしまった。そして東京オリンピック(一九六四)あたりから昆虫採集がこの激減の元凶であるかのように考える風潮が生まれた。学校でも夏休みの自由研究での昆虫採集が禁止された。どこか希望の党代表が環境大臣だった頃の風潮に似ている。
ここでもう一度右に述べたキリスト教的世界における生きものを殺すことに対する判断基準としての目安、賢いかどうかと痛みを感じるかどうかについて、釣り人の立場で考えてみる。
釣り人と一括りでものは言えないだろうが、多くの人は魚が痛みを感じるとは思っていないし、魚(敵)は賢いと思っているのではないだろうか。賢いからせめる気にもなるし、釣り上げる意欲も湧く。
その場合、毎日顔を合わせている誰かさんと比較していたりもするし、釣れないこの魚とつれないあの人とどっちがどうと考えたりもする。こんなことを考えるのはつい昨日、藤沢周平の好短篇〝三月の鮠〟(『玄鳥』所収)を読んだからかもしれない。
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実験動物の行動はどのようにでも解釈できる
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どうもへんな方向に流れてしまった。本道にもどす。魚は痛みを感じるかどうかである。
これは五年前に翻訳出版された米・ペンシルベニア大学教授ヴィクトリア・ブレイスウェイトの『魚は痛みを感じるか』という本がどうも気になって本欄を書き始めたのだが、こねくり回し過ぎてこんがらがってしまった。
また、この九月には広島大学の吉田将之准教授が『魚だって、考える:キンギョの好奇心、ハゼの空間認知』という本をまとめた。
両書を読んで言えることは、著者はそれぞれ、魚は痛みを感じている、魚は考えていると言いたいと考えているらしいのだが、研究者としてはわからないというしかない、もっと研究を進めるしかないということらしい。
それはもっともなことで、痛みを感じているか、考えているかを話せない魚を実験室で使って明らかにするのは大変難しい。
現在実験室でできる方法としては、魚の脳内の細胞や分子レベルで痛みや思考に反応して起こる変化を解析することが考えられるが、その分野で昨年一つの論文が出た。
オーストラリア、クイーンズランド大学の脳の成長と再生研究所の所長ブライアン・キー(車のキーと同じスペル)が「動物の感覚」誌に発表した〝なぜ魚は痛みを感じないか〟という、そのものズバリ、身も蓋もないタイトルの論文である。二二四の新しい論文を読み、三三ページ(うち一六ページが引用文献リスト)にわたって延々と続く内容は、まあ説得力がありそうだ。
しかし、脳科学や認知行動学の研究者でもない私達は彼女、彼たちの方法で魚が痛みを感じることが解明されようが、またそのことを説明されようがどうでもよいことである。
それらへの対応は、釣り人としてのこれまでの経験(体験)と現在置かれている状況の中で、個人的にどう考え行動するかで決まってくる。
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ドジなノロマな金赤キンギョ
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そのことに関わりのあると思う、五五年前に筆者が行なった魚類の行動実験の話をする。
言いたいことを先に言ってしまうと、「実験室で行なう実験というものは、人間がつくる基準で実験動物の行動をどのようにでも解釈できる」というもので、その後実験室にはもどらず野外で魚(オイカワ)を調べ、さらに魚を獲る人間に強い関心をもつようになった。
東京水産大学の二年生から法政大学社会学部の生物生理学研究室に通うようになり、卒論研究もそこでやった。研究室の柘植秀臣教授は条件反射の研究では一人者で、ネズミやハトの脳に電極を入れての研究なども行われていた。
筆者のテーマは、魚の群れに条件反射を形成するというもので、究極の目的は人工ふ化したサケ稚魚の群れに、捕食魚(例えばニジマス)から逃げる防御条件反射を形成した魚を混入して放流し、全体としての被捕食率を下げるというものであった。それから十数年後には、この試みはナンセンスなものだとわかったがその当時は大真面目に取り組んでいた。
実験は、キンギョ六尾の群れにまず摂餌条件反射を形成するというもので、一日二時間位ずつ二〇日間続ける。
装置は一尺ガラス水槽を左右二室に区切りその間の通路に、伝書鳩小屋につける片側通行ののれん式くぐり戸を、左右両方向に操作できるようにしてつける。両室の壁では赤いランプが点灯できる。市ヶ谷の釣り堀で買ってきたキンギョを赤白のまざり具合で個体識別しほぼ同じ体重の六尾を右室に入れる。実験開始。ランプを点灯しじっと待っている。
そのうちうろちょろしていた一尾(頭赤)が、たまたまくぐり戸の所に行きくぐって左室に行く。そこで赤虫を一匹与える。時間はかかるが残りの五尾も左室に行くものがでてきて赤虫を食べる。
次に左室でランプを点灯して同様のことを一日十回くり返す。十回の操作の時間間隔は乱数表で決める。ランプが点いたら隣の室で赤虫を食べるという食餌条件反射ではなく、一定時間間隔で隣室に行けば餌がもらえるという時間条件反射を形成しないためである。
しかし、最初の頃は、その時間間隔も少し長めにしなければならない。なにしろ、のんびりしてあまり動かない一尾(全赤)が隣室に行くのには時間がかかる。
そのようなことが実験十五日目頃には見られなくなり、赤ランプが点くとすぐに行列をつくって、六尾全部が隣室に行くようになる。群れでの条件反射が形成されたことになる。
日々いろいろな行動や時間を細かく記録していると、その形成過程に個体差が明確に見えてくる。常に詮索的でよく観察し動きまわっている頭赤は点灯後に隣室に行くまでの時間(潜時)が短く、抑圧的で我関せずと動かない全赤は潜時が長い。観察者にとって、頭赤は成績のよい賢い魚に見える。全赤は何てドジなノロマと馬鹿にされる。
実験終了時に体重を計ったら全赤の増重が最大で、頭赤は殆ど変わらず。生物を大きくなることはよいことという基準で計れば全赤が優秀、頭赤はお粗末。全赤は実験全体を見切っているのかもしれない。落語のまくらの世界である。
いつも寝てばかりいる息子に母親が寝太郎や、そんなに寝てばかりいないで起きて少しは働いたらどうだい。そうやって働いたらどうなるんだい。よく働けばお金もたまり金持ちになれるよ。そしたらどうなる。のんびり暮らせるよ。そしたら。いつも寝ていられるよ。だったら今のままでいいさ。
学生相手にさらに興が乗ると、南太平洋の「パパラギ」にまで話は及ぶこともあった。
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遊漁におけるキャッチアンドリリースの複雑さ
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気になって読んだ『魚は痛みを感じるか』の第七章〈未来を見据えて〉の参考文献としてあげてある論文、アーリングハウス他七名(二〇〇七)「遊漁におけるキャッチアンドリリースの複雑さを理解する。」は大変なものである。
外来魚騒ぎ以降、キャッチアンドリリース(以下C&R)には関心がなくなっていたのでこんな人達がでて来ているのだとびっくりした。みんな若いようである。
まず、この九三ページからなる論文の副題がすごい。〝歴史的、倫理的、社会的、生物学的展望による世界的知見の完全統合〟というものである。しかし、八名の筆者を知ると誇大広告ではなさそうである。
①ドイツの淡水魚と内水面漁業研究 ②カナダの魚類生理生態学研究、バスの論文多数 ③アメリカの遊漁部局の役人 ④アメリカ国立研究会議、魚類、遊漁、漁業の歴史と進化 ⑤スイスの弁護士 ⑥カナダ、バスへのC&Rの影響研究 ⑦オーストラリアの大学にいるが、米でC&Rで博士学位 ⑧ノルウェイ、アフリカと大西洋サケでC&Rを研究。
なお、日本の養殖研日光(前淡水研日光支所)の坪井さんのイワナのC&R研究も三篇引用されている。
次号の本誌で読み解いてみたい。
(了)
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フライの雑誌社では、ここに来て日々の出荷数が増えています。「フライの雑誌」のバックナンバーが号数指名で売れるのはうれしいです。時間が経っても古びる内容じゃないと認めていただいた気がします。そしてもちろん単行本も。
島崎憲司郎さんの『水生昆虫アルバム A FLY FISHER’S VIEW』は各所で絶賛されてきた超ロングセラーの古典です。このところ突出して出荷数が伸びています。