※新刊『桜鱒の棲む川 ─サクラマスよ、故郷の川をのぼれ!』の本文を紹介してゆきます。
サクラマスのロマンと資源管理 〈※全文公開期間は終了しました〉
『新リア王』に描かれた、サクラマスのロマン。
しかしサクラマスの実体は小説よりももっと面白い。謎だらけである。
高村薫に『新リア王(上、下)』 (二〇〇五年一〇月二五日発行)という小説がある。高村薫は好きな作家で、これまで、『マークスの山』、『神の火』、『照柿』、『晴子情歌(上、下)』等々、著作はほとんど読んでいるが『新リア王』には参ってしまった。
その理由の一番目は、この小説が、筆者が原発や再処理工場のことでここ三〇年ほど通っている青森県下北半島を舞台にした原子力開発というか地域開発をめぐる風土と政治の葛藤に、真正面から取り組んでいること。二番目には上下巻合わせて八七一ページの長編のなかで、一〇ヶ所一〇数ページにわたってサクラマスにふれていることである。
二〇〇四年八月末から九月にかけて、六ヶ所村の再処理工場からの放射能たれ流しによる海洋汚染について岩手県の久慈市、宮古市、陸前高田市と講演をした。その途中で安家川のサクラマスを見てサクラマスの調査を始めたものにとっては、その因縁にただ驚くのみである。
二〇〇五年一一月五日、漁業経済学会主催、水産庁共催の「第三回 遊漁施策等に関する研究会」で、〝内水面の遊漁をどうみるか〟というテーマで報告を求められた。そのなかでアユ、ブラックバスと共に、サクラマス、サツキマスについて、大筋次のようなことを筆者は話した。
サクラマス・サツキマスは四県六二漁協で漁業権魚種の対象となっている。サクラマスはマリンランチング計画以来、国や東北北陸八県と北海道が増殖に力を入れているが漁獲量は減る一方だ。遡上系中心から池産系中心へと移行してきたが、海面及び河川での資源量は思うように伸びない。サツキマスと共にサクラマスは釣り人にとって幻の魚と化しつつあるが人気は上昇中だ。河川での捕獲が一切禁止されている北海道でのサクラマスの今後について考える。
サクラマス資源の再生を考える際に、河川における二年間の生活の多様性と銀毛化の謎を検討する必要がある。自然産卵を再生するために、河川環境を見なおす動きが起こりつつある。バードウオッチングやホエールウオッチングのように、「サクラマスが棲む」気配を釣り人が楽しむ提案をしたい。長野県にサクラマスとサツキマスが遡上していた時代を再現するには何が必要か。
内水面遊漁を維持するための釣り人の運動として、サクラマスについては安家川におけるウライ撤去署名運動、神通川における遊漁権訴訟、サツキマスについては長良川河口堰建設反対運動がある。二一世紀に期待される夢のある釣り場の具体例として、「アユ、サケ、サクラマス(サツキマス)の遡る川」を挙げてみたい。
筆者のこの報告に対して、研究会への参加者で季刊『フライの雑誌』編集人の堀内さんより、〝サクラマスをウオッチングし棲む気配を楽しむというがやはり釣らなければ面白くない〟という意見があった。これに対して一応その場で答えてはいるが、舌足らずで意を尽くすものではなかったのでここであらためて考えてみたい。
二〇〇四年九月初め、安家川にサクラマスを見に行ったと前項で記した。ウライ(鉄製の柵)で遡上を止められ蓄養池の水路にいるサクラマスとサケを見た後に、ウライからうまく抜け出して一〇数キロ上流まで遡上しているサクラマスがいるのではないかと川筋を上がって行き、この淵には潜んでいそうだなとカワシンジュガイも生息する清澄な流れを見守った。
安家川では春の三月、四月と秋の九月、一〇月に産卵のために遡上する二つのサクラマスの群がある。下流域にある漁協では三、四月に遡上する群もウライで捕獲し、秋の産卵期まで蓄養している。春にはウライを開けてサクラマスやウグイその他を自由に遡上させよというのが、上流域にある安家川漁協と釣り人の要望である。それに対する下安家漁協の主張は、「遡上させても河川環境が悪くなっているので自然産卵は難しいし、産卵の前に釣り人に釣り獲られてしまう。だから全数採捕し、半年間無給餌で蓄養し人工採卵したほうが回帰量は多くなる。」というものである。
(中略)
さて、「遊漁施策等に関する研究会」で〝サクラマスの棲む気配を楽しむ〟というようなことを言ったのは、『新リア王』を読んだことも関係しているかもしれない。この本ではサクラマスは漁や釣りそして食べることの対象としては全く見られておらず、川に存在すること、海に下ってまた産卵に川に遡ってくるその生態、それもサケと異なり多様なこと、そして人々が川にいるサクラマスに向き合うこと、などが主に描かれている。
この小説は、青森県選出の自民党の衆議院議員福澤栄とその息子である禅僧の彰之との四日間の対話よりなる。彰之が日本海側深浦の吾妻川でサクラマスを思いながら川を歩き、
実を申せば、私は一晩そのままそこに座っていたのですが、わたしが勝手に〈ヤマオ〉と名付けた一尾の大ヤマメに誘われて、様々に思い巡らせたのはおおよそ次のようなことでありました。
で始まる三ページと、その前の三ページは、まさにサクラマスの気配に感応して時を過ごす、釣らない釣りの境地に通ずるものがある。
『新リア王(上)』の第一章本会議場の一七五ページにこんな記述がある。
そういえば老部川のサクラマスについて、最近、水産試験所の職員にこんな話を聞いた。あの種はもともと川で孵化したときから成長に個体差があって、川に残ってヤマメになるもの、海へ下ってサクラマスになるものに分かれるのも何らかの種の戦略だろうということだが、海へ下ったグループの遡上も二年級から三、四年級の個体が入り交じっていて…
以下一ページにわたり、サクラマスの生態について非常に興味深いことが書かれている。
筆者はここに描かれている「水産試験所の職員」と話してみたくなり、さがしさがししてようやく、もしかしたら高村はこの人に話を聞くなり書いたものを読んだのではないかと思われる方と連絡がとれた。十和田市の青森県内水面研究所で老部川を中心にサクラマス研究を二三年間続けてきた、保さんである。
原子さんがいた研究所には多くの人が訪ねて来た。原子さんはもし会っていたとしても高村さんのことは覚えていないようだが、サクラマスに関する事実認識においては筆者と全面的に一致した。
その結果、高村の聞き違いや誤解そしてフィクションとして『新リア王』での一〇数ページの記述中、半分くらいは事実と異なっていることがわかった。小説なのでそれをとやかくいうつもりはない。
それよりも、〝事実は小説より奇なり〟で、サクラマスの実体は小説よりももっと面白いのである。謎だらけである。老部川では二〇〇五年秋の原発の運転開始と共に、サクラマスについてとんでもないことも起こっていた。そのとんでも話も含めて謎ときをしてゆきたい。・・・・・
・・・続きは本文でお読みください。
(新刊『桜鱒の棲む川 ─サクラマスよ、故郷の川をのぼれ!』第2章「サクラマス・ロマネスク」より。数字表記は本文ママ)