プライド青果のおじさん

 T駅の高架下でもう30年以上店を続けている八百屋さんがある。ここは誇り高いことで地域の住民に有名だ。60がらみのおじさんが一人でやっている。ごま塩で面長、ちょっと猫背。基本的に無愛想で、おつりを渡すとき以外は口をきかない。しかし自分の目利きには絶対の自信とプライドを持っている。だから本当の店名はあるのに(帽子にもちゃんと書いてある)、一部の住民からは陰でこっそり「プライド青果」と呼ばれている。T駅を使っている住民ならプライド青果関連のエピソードはかならず一つや二つは持っているはずだ。
実話その1。プライド青果でスイカを買ったら、中身がスカスカだった。主婦:「あんなスイカ売ってひどいじゃない。スカスカだったわよ」。おじさん:「それはうちのスイカじゃねえ」。主婦:「何言ってるの、昨日ここで買ったじゃない」。おじさん:「…うちじゃねえ」。
実話その2。プライド青果では売れ残りは1日ごとに値段が下がる。「これください」とトマトのざるを指さしたら、「半分にまけとくよ」と言って黄色く日焼けしたトマトのざるを奥から取り出し、勝手に2つ袋へ詰めた。「100円」。
実話その3。プライド青果へ買い物に行ったら、「ふん」と鬼の絵が描いてある豆の小袋をくれた。なんで? と聞いたら「昨日は節分だろ。来るかと思ってとっておいたのに」。
 そんなわけで、プライド青果店は地域の人から細く長く愛されている。スーパーで味気ない買い物をするよりも、あのおじさんから対面で買いたいと言う人は多い。多少腐っていたっていいじゃないか。
 そのプライド青果店が、8月のお盆前からずっとシャッターを閉めたままだった。仕入れの軽トラックもおじさんもぜんぜん見ない。閉まったシャッターの奥では壁をこわしているような音がする。おじさんも年だし、最近の不景気でいやになって店をやめてしまっても不思議はない。テナント料だってばかにならなかったろう。
 私はおじさんが急に気になってきた。これまで身の回りで何かを失ってから初めてその大切さに気がついたことが幾度あっただろう。プライド青果然り。おじさんの猫背が見えないT駅はとたんに色褪せてしまったようだ。閉じたシャッターの前を通るたび、もっと買い物をしておけばよかったと、胸がちくちくした。そしてふと、おじさんにフライロッドを持ってもらい、すぐそこの多摩川へ一緒に行ってみたかったと思った。おそらく生まれて初めてフライラインを操るだろうおじさんは、私なんかが予想もつかないひとことを言ってくれた気がする。でもおじさんの姿はもうない。
 …今朝、T駅の前を通ったら、半月ぶりにプライド青果店のシャッターが開いていた。土間で大工さんが数人忙しそうに働いている。中をのぞいたら、壁紙がレンガ模様のこじゃれた風に張り替えてある。つまらないカフェでもできるのかな。もっとよく見ると、店の中央でプライド青果のおじさんが腕組みをして、がっつり仁王立ちしているではないか。おじさん元気だったんだね。思いきって声をかけた。「お店どうしたんですか」。おじさんはぼそっと言った。「リニューアルだ」。
 おじさんとフライフィッシングすることはやっぱりないかもしれない。