【公開】海を知らないサクラマス|『葛西善蔵と釣りがしたい』(堀内正徳)

サクラマス釣りのベストシーズン到来です。単行本『葛西善蔵と釣りがしたい』より、〈海を知らないサクラマス〉を公開します。

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海を知らないサクラマス

北関東にある管理釣り場へ行った。関越道をひた走る車の中で保育園児が大人びた感じでつぶやいた。

「今日はサクラマスを釣ろうかな。」

なんとふざけたことを言う園児だろう。サクラマスといえば日本の、いや世界のフライフィッシングの対象魚のなかでも、手にするのがもっともむずかしい魚のひとつだ。一〇年追いかけてただの一度のアタリすらない釣り人もざらにいるほどだ。

そのサクラマスを、フライロッドもまともに振れない園児のお前が「釣ろうかな。」だと?

最近、サクラマスを目玉魚種として放流している管理釣り場が増えている。とくに他の釣り場と差別化を図りたい激戦区の管理釣り場に多い。うちには〝あの珍しいサクラマス〟がいますよ、というわけだ。

サクラマスとヤマメは本来同じ魚である。海や湖へ下って大きくなればサクラマス、そうではないものがヤマメというシンプルな分類で、大きく間違いはない。

管理釣り場で「サクラマス」と銘打たれて放流されている魚の出所は、それなら海なのか。そんなはずはない。

神奈川県の芦ノ湖漁協はここ数年、サクラマスを放流していることを盛んにアピールしている。釣り人からも人気だ。

取材で電話を差し上げたとき、「どこらへんがサクラマスなんですか?」と少し意地の悪い質問をしたことがある。すると「サクラマスの親魚からとった卵を育てたからサクラマスなんです。」という説明を受けた。対応してくださったのは水産学をおさめているベテランの職員さんだ。電話口の向こうの声がほんの少し硬くなった。

先方の立場を理解しつつもあえて言うなら、職員さんの返答は間違いではないが正しくもない。なぜなら親魚たるサクラマスが産んだ卵からかえった稚魚のすべてが、海へ下るわけではないからだ。稚魚が海へ下るか川へ残るか、分岐のくわしいシステムはじつはまだよく分かっていない。サクラマスの最新事情は、『桜鱒の棲む川』(水口憲哉著)にくわしい。

サケ科魚類は人間に多く利用されているが、サクラマスはその中で人がコントロールできずに、いまだもってもっとも謎の多い魚だ。『桜鱒の棲む川』では〝人の手から逃れつづけている〟マスと呼んでいる。

釣り師の視点から言うと、サクラマスには独特の荘厳さがある。

海から遡ってきたことを主張する銀白の体色、透明感のある鋭い面構え。自分が産まれた川でしか産卵しない頑固さ、川から海へ何千キロのきびしい旅の末に、死ぬことが運命づけられている川へきまじめに帰ってくる儚さに、よりいっそうの憧れが募る。

数は少ない。釣り人は大河川の中下流域でひたすら雲をつかむようなキャスティングを繰り返し、たいていは肩を落として帰る。たいへんな幸運のおかげでたまさかハリにかけたとしても、サクラマスはとてもバレやすい魚だ。白銀の巨体を水面でローリングさせられると、釣り人の心臓は沸騰寸前になる。

そしてもうひとつ、サクラマスは食べてすばらしく美味しい。マス類の中でもっとも美味しいと断言する人は多い。数が少なくて美しくて美味しいとなれば、そりゃあ釣りたくて当たり前である。

最近管理釣り場で流行のサクラマスは、養殖もののサクラマスである。天然のサクラマスとは、見かけも味も、あふれでるオーラもまったく別物である。

川で生まれ大海原を自分の力で駆け巡って大きくなり、幾多の困難を乗り越えて生まれた川へ帰ってくる、麗しき天然サクラマス。

それに比べれば、養殖サクラマスはそもそも人間が卵子と精子を受精させた魚だ。生まれたときからずっと、水も温度もエサも管理されたコンクリートのいけすで育つ。危険がいっぱいで、その分最高に自由な海を知るはずもない。

養殖のサクラマスは天然ものにくらべれば、まるで安っぽいCGみたいなものだ。

それでもそこらの釣り堀で〈サクラマスみたいな魚〉が釣れると、わたしみたいな釣り師はちょっとうれしかったりする。

すこし哀しい。

「今日はサクラマスを釣ろうかな。」

と軽ーい感じで園児が口にした瞬間、我が子相手に思わずわたしはムッとした。そして、なんでこの子がそんなことを言うのかを考えた。

すると以前、わたしがどこかの釣り堀から〈サクラマスみたいな魚〉を持ち帰ってきたことがあるのを思い出した。

たしかにあの時、自宅のまな板の上にそれをゴロンと転がして、

「ほら、この魚をサクラマスという。ありがたいだろう。」

と、いばった記憶がある。あれか。

最近何かとわたしに張合いたがる園児は、今日の釣りにあたり、「じゃあサクラマスくらい。」と内心思ったに違いない。

なんということだ。教育上まったくよろしくない。大失敗だった。

マス界の夏目雅子であるサクラマスを、そこらのひと山いくらのアイドルのように扱うとは。

このままではろくな大人にならない。ここはきっちり教育しておこう。

わたしは車をパーキングエリアにいれた。

「いいか、よく聞け。」と前置きし、

「海を知らないサクラマスは本来サクラマスとは認められない。なぜならば…。」

と、両者の大いなる違いについて、五歳児にも分かるようにこんこんと一五分くらい言い聞かせた。

なにが本物でなにがニセモノかを自分の目で見極めること。それは人生全般に通ずるもっとも大切な指針だ。

人生の荒波は生きている限り連続して打ち寄せてくる。ちょっとやそっとの波にも負けずに生きぬいてゆくためには、自分だけのブレない羅針盤が必要だ。そのコンパスの針はいつも君のこころの中にある。

君が大きくなったとき、海を知らないサクラマスみたいな情けない大人になってほしくないのだよ、パパは。

「わかったか!」

「わかった。」

ほんとうにわかったのかお前は。

鼻くそほじるな。

(『葛西善蔵と釣りがしたい』収録)

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単行本『葛西善蔵と釣りがしたい』より
葛西善蔵と釣りがしたい 堀内正徳=著
(『フライの雑誌』編集人)
ISBN 978-4-939003-55-4
B6判 184ページ / 本体1,500円+税
2013年6月10日発行:「友の会」会員は特売税込540円で。
世界唯一の〝サクラマス単行本〟!サクラマスの秘密を知りたい方の必読書 桜鱒の棲む川―サクラマスよ、故郷の川をのぼれ!(水口憲哉) 表紙「めぐみ豊かな気仙川と広田湾を守る地域住民の会」山下裕一さん撮影〝気仙川をのぼるサクラマスの群れ〟
第111号(2017)よく釣れる隣人のシマザキフライズ とにかく釣れる。楽しく釣れる。Shimazaki Flies すぐ役に立つシマザキフライの実例たっぷり保存版!
 いつも思い通りに釣れるならこんな本も作ろうと思わないしなあ。申し訳ないですがAmazonさんでは発売と同時に品切れです。追加分予約受付中です。