〈生物多様性〉を口にした途端に、水戸黄門の印籠みたいに人々がひざまずく情況はおかしいのではないか。そんな風に思っている方に、『生物多様性を考える』(池田清彦著/中公選書)のご一読をおすすめします。
自然の改変こそは現代人の生存の条件なのだ。現代人は自然のコントロール抜きでは生きていられないのだ。自然をコントロールしたいという欲望は我々の心身に刻まれていると言ってよい。(21P)
生物多様性を守れ、という錦の御旗を立てて人々は己のコントロール願望を正当化することができる。コントロールは金儲けと利権の源泉でもあるので、場合によっては生物多様性は結構な商売になる。(22P)
ブラックバスもワカサギも、導入された湖では人為的に運ばれた外来生物(外来種)であることに変わりはないが、前者は国家によって駆除の対象になり、後者はお咎めなしというのは、ブラックバスの存在は都合が悪く、ワカサギの存在は都合がいいと思う人々の政治的な発言力が単に強かったという以上の理由はない。(107P)
地域個体群の人為的交雑を言うのであれば、各地の内水面の漁協で実施されている、アユ、ヤマメなどの放流の方がよほど問題だと思う。…うがって考えれば、これを問題にすると、日本全国の内水面の漁協を敵に回すことになり、政治的にややこしいことになりかねない(144P)
さて問題は西湖のクニマスは人為的に導入された外来生物だというところにある。一部の保全論者の論法に従えば、西湖のクニマスは自然史を尊重する理念に基づき駆除されるべきという話になるはずなのだが、(152P)
…野外で懸命に生きている生物に対して、在来生物だとか外来生物だのというレッテル貼りをして、外来生物を選択的に殺すというのはいかがなものかと思う。…イデオロギーのために外来生物を皆殺しにするのは悪いことだと思う。(156P)
とりわけこの一文に注目。
ここでも重要なのは何のために生物多様性を守るかという視点である。究極の目的は人類の福祉を向上させるために決まっている。(168P)
とかく言葉面だけが走りやすい〈生物多様性〉の内実について、歴史とエビデンスを踏まえて平易に解説しています。リバタリアンの著者らしい皮肉や冗談も随所で愉しめます。著者の考え方に賛同するかどうかは、読者それぞれでしょう。