「イマージングの季節だからね。」

浅川でわたしが釣りをしていると、どこからともなく現れて、少し離れてフライロッドを振りはじめる近所の小学生がいる。それが今年の春から厨坊になったという。

ヒトの10代前半というのは、生物学的にバランスがわるい時期だ。(ここで「イマージングの季節だからね。」とか「君はピューパさ。」などと気持ちの悪い台詞は、わたしは死んでも口にしないと心に決めている。)

自身をかえりみれば、自分の厨坊時代は思い出したくもない。わたしの人生は今でもわりと黒いが、あの頃の黒さは濃度が数倍だった。数十年を経たいまでも、「わーっ」とか叫びたくなる瞬間がフラッシュバックしてくるのは、厨坊時代のそれがもっとも多い。

近所の小学生は厨坊になって、どんな暗黒星雲の中へ突っ込んでいくのだろう。これからは「近所の小学生」ではなくて、「近所の厨坊」と呼ばなくてはならないのか。うへえ、だな。

・・・・・

昨日、面倒見のいいわたしは、新厨坊祝いということで、厨坊を養沢毛鉤専用釣場へ連れて行ってやった。

朝受付で入漁券を買った。養沢を二人で釣るのは三年ぶりくらいだろうか。受付のお姉さんが、「まあ、大きくなったわね。」と、わたしの横の厨坊を見ておどろいていた。

バッジを厨坊へ与え、身支度を整える。少しまでは、わたしのウエーダーを貸すと、ウエーダーの中に全身が埋もれていた厨坊だったが、最近はふつうに履きこなす。

養沢川では危ない箇所もない。

「お前、今日は好きに釣りな。」と、川へ放った。

・・・・・

いつのまにか、釣り師としての、気力・体力・視力・集中力・反射神経、全てにおいて厨房にかなわなくなっていた。

たとえばひとつのライズを狙うのでも、わたしはすぐ諦めるが、厨房はしつこくて、わたしが釣れなかったマスも釣る。これは気力の問題だ。人生において何度も挫折を重ねてきたおっさんと、まだ世の中の厳しさを知らない厨房との差である。

第一、目のよさが全然違う。わたしに見えない魚を見て、見えない毛鉤を追い、見えないライズをしつこく狙うのだから勝負にならない。そもそも毛鉤を結ぶときのわたしは眼鏡を下にずり下げて、ものすごくかっこいわるいじゃないか。

ふだんの動作はスローモーでも、釣りにおける川歩きの速さには、わたしは自信があった。ところが、厨房はかなり離れた後ろからテキパキと釣りのぼって来て、とっとっとっと抜いていく。(第108号の編集直後で足腰が弱っているせいもある。本を出すごとに足腰がガクンと落ちるのだ。)

夕方になって、川からの上がり口で、厨坊が先に踏み跡をのぼっていった。その身軽に着いていけず、遅れて道路へヨイショっと顔を出したわたしに、厨坊が上から手を差し伸べてきたとき、わたしは自分の負けを認めた。手をのばしながら、厨坊は慈しむように微笑んでいたのである。

・・・・・

わたしは渓流釣りを始めた高校生のころから釣りが下手だった。自分が釣りでいい思いをできないのは経験が少ないからで、その内きっと腕が上がって、いい思いもするだろうと考えていた。そのまま、あっというまに数十年がたって今になった。けっきょく腕もそれほど上がらず、そんなにいい思いもしていないまま、わたしの釣り人人生は終わりが見えている。切ない。

これから厨坊といっしょに釣りへ行くときは、わたしはインサイドワーク中心の闘い方へ変える。歳をとった悪役レスラーのように、ゴングと同時に相手を場外へ連れ出してイスで殴打、レフェリーの目を盗んで凶器攻撃などルールすれすれで攻める。急所撃ちもいとわない。

体力ではかなわないが、重ねた馬齢の意味を、厨坊はこれから知ることになるだろう。ズルさ含めて実力のうちだ。

いいか、厨坊。

お前、それが人生というものだよ。

第106号表紙の季節違い。
第106号表紙の季節違い。
ほっ春だな。ほっ春だよ。お前は春でいいな。こっちは晩秋だよ。
お前は春でいいな。こっちは晩秋だよ。
釣果はともかく竿やリールのお道具で遊ぶのも、言ってみればインサイドワークみたいなものである。
竿やリールのお道具で遊ぶのもインサイドワークみたいなものだ。
のらぼうは裏切らない。
のらぼうは裏切らない。
『葛西善蔵と釣りがしたい』(2013年5月16日発行)
『葛西善蔵と釣りがしたい』 > 会員限定ページへ:『葛西善蔵と釣りがしたい』第一章
「小社取り扱いショップ」の店頭に並んでいます。
最新第108号は「小社取り扱いショップ」の店頭に並んでいます。