『フライの雑誌』第107号の特集◎「再発見・芦ノ湖の鱒釣り」には、たいへんな反響があった。特集を編集している過程で、芦ノ湖の水産関連年表を作成する企画も出てきたのだが、事情により実現しなかった。
『フライの雑誌』第9号(1989)に、「フライフィッシャーマンにとっての内水面漁協:最も遊漁経営感覚のすすんだ芦ノ湖漁協の悩み」という記事が掲載されている。
じつはこの記事の下段に「芦ノ湖の増殖事業の歴史年表」がばっちり載っているのである。昨日、たまたま編集部の本棚を整理していたら気づいた。すっかり忘れていた。すみません。
年表作成者のクレジットはないが、記事本文の署名は「リポート/中沢孝」とあるので、年表も中沢孝氏(当時の本誌編集発行人)によるものと思われる。
以下、「芦ノ湖の増殖事業の歴史年表」を掲載する。
芦ノ湖の増殖事業の歴史年表
1879(明治12) 増殖事業始まる。内務省励農局が明神川中流右岸にふ化場を設ける。
1880(明治13) ホンマスとサケを合わせて6万2千尾ふ化放流。しかし2年後に増殖事業は中止となる。
1888(明治21) 皇室御料局(後の帝室林野局)が増殖事業を引き継ぎ再開される。中禅寺湖からホンマスの卵、北海道茂辺地川からサケの卵を移入し、放流。サケは一年で中止。
1889(明治22) 中禅寺湖からイワナの卵を移入し、放流。
1893(明治25) ホンマスとイワナの卵を芦ノ湖で採卵して稚魚放流可能となる。旧箱根町と元箱根村の人たちが御料局に30年間の借用(漁業権)を請願。許可される。
1894(明治27) 芦ノ湖漁業組合を設立。御料局から増殖事業を引き継ぐ。明治21年からこの年までに放流された稚魚の合計はホンマス11万尾、イワナ約4万9000尾となる。以降明治40年まで毎年ホンマスを4万〜6万尾放流する。
1905(明治38) 放流事業を続けたにもかかわらず、期待ほど魚が獲れず、漁業組合経営不振となり、増殖事業を神奈川が引き継ぐことになる。それにともない、帝室林野管理局は漁業組合に漁業権の返還を求め、再び同局が芦ノ湖の増殖事業を始める。
1907(明治40) 帝室林野管理局は、明神川左岸の河口に事務所をおき、中流に200万粒の卵をふ化できるふ化場を作り、放流を始める。(帝室林野管理局が再び増殖事業を始めた理由は、明治37年5月に芦ノ湖湖畔に人力道が開通し、訪れる外国人が増え、それらの外国人によい釣り場を提供するのが第一の目的だったといわれている)
1909(明治42) 帝室林野管理局は「箱根湖舟艇取締規則」「箱根湖遊漁者心得」を定め、一般者が舟を借りて釣りができるようになる。
ヒメマスを放流の主体とするようになる。十和田湖や支笏湖から卵を移入。4年後には毎年10万粒の卵が採れるようになる。1910(明治43) ニジマスを放流する。
1918(大正7) ワカサギの放流始まる。霞ヶ浦から大正9年までの3年間に380万粒の卵を移入。
1919(大正8) 富士川産のウナギ稚魚1万2千尾を放流したが、成果が上がらず。(〜大正9)
1921(大正10) 増殖事業中止となり、その施設は東京帝国大学淡水魚研究所となる。
1923(大正12) 芦ノ湖は皇室財産から神奈川県へ移管される。
1925(大正25) 赤星鉄馬が東京帝国大学淡水魚研究所の研究魚としてアメリカ、カリフォルニア州からブラックバスを200尾ほど輸入。生き残った78尾が芦ノ湖に放流された。
1926(大正5) 農林省水産増殖奨励規則が公布される。
1927(昭和2) 地元民が箱根漁業組合を設立。芦ノ湖専用漁業権を農林大臣に申請。しかし、ブラックバスを「害魚」とする空気が強く、ブラックバスの増殖を目的としていた専用漁業権は許可されず、組合はブラックバス権の出願を取り下げる。
1928(昭和3) 芦ノ湖湖畔と仙石原に淡水魚養殖場が建設され、マス類の増殖がすすめられる。ホンマス、ヒメマス、ベニマス、カワマスの稚魚合わせて51万2千尾が放流される。
1936(昭和11) 専用漁業権が認可される。
1938(昭和13) コイ、フナ、アユが試験放流される。
1943(昭和18) 太平洋戦争が激化により神奈川県の増殖場が閉鎖される。国内の統制強化がすすみ、水産業団体法が制定される。
1944(昭和19) 水産業団体法により、箱根漁業組合は解散を命ぜられ、戦争協力のための箱根漁業会誕生。
1949(昭和24) 地元民131名によって、芦之湖漁業協同組合が設立される。
1951(昭和26) 新漁業法制定により、共同漁業権を申請し、ようやくブラックバス漁が認可される。
1960(昭和35) 神奈川県と箱根町の助成で、30万尾のマスをふ化できる増殖場を建設。
1969(昭和44) 漁協の経営方針が遊漁を目的とした観光事業に切り替えられ、ニジマスの放流に力を入れるようになる。この時点から主役がヒメマスからニジマスに移ることになる。
1972(昭和47) カナダのジャスパー国立公園からブラウントラウトの稚魚が寄贈され、放流された。
1974(昭和49) この年から4年間、神奈川県淡水魚増殖試験場の援助により、アルゼンチンのペヘレイの稚魚2万7千尾が放流された。しかし成果が上がらず、その後放流は中止。内水面総合振興対策事業の指定を受け、新たにマス卵40万粒をふ化育成できるふ化場が慣性。これによりヒメマスの養殖が再び盛んになる。
1978(昭和53) この年よりヒメマスの卵を毎年10〜40万粒移入し、ふ化放流を始める。
1979(昭和54) ニジマスの放流量22万トンとなり、遊漁者が8万人を超える。
1981(昭和56) 50年代に激減したウグイを増殖するため、この年から毎年10万尾の稚魚を栃木県より移入し、放流し始める。
1983(昭和58) 遊漁者が史上最高約10万人となる。
1980年代の後半から、日本には空前の釣りブームがやって来た。1996年、芦ノ湖の遊漁者数は年間23万人となった。この年のニジマス成魚の放流量は、なんと150万トン。世界的にもめずらしい「大量成魚放流のマスの釣り場」となった芦ノ湖は、1990年代末に釣りブームが収束するのと同時に、急速に遊漁者数を減らしていく。
そのあとの芦ノ湖がたどった足取りは、『フライの雑誌』第107号◎特集のメイン記事「芦ノ湖は今、どうなっているのか」(野津昌生)をお読みいただきたい。記事では、現在の芦ノ湖の状況を釣り人の視点からくわしく分析し、これからの芦ノ湖を、わたしたちがどう利用していけばいいのかの具体案も提案している。
釣り人、漁協、地域住民、行政が協力して、魅力ある芦ノ湖を未来世代へつないでいきたい。