わたしは学生だったころ、当時遊びに行っていた『フライの雑誌』の編集部で、「魚をつくる」というフレーズを聞いて、ものすっごい違和感を覚えた。イワナ、ヤマメの養殖場だか水産試験場だかについての会話で、編集長の中沢さんが使ったのだった。どういう文脈だったかは忘れた。肯定的でも否定的でもなく、言ってみればギョーカイ的なのりで使われていたような気がする。「あそこの養魚場は、いい魚をつくっているんだよ」みたいな。
そのころ、「水試」とか「水産」という言葉が、どうして自分の好きなフライフィッシングや釣りという趣味と結びつくのか、二十歳をすぎていたのに、さっぱり分からなかった。もちろん高校生の時に分かっているはずもなく、「水産系」の大学があることすら知らなかったのは当然だ。後年、雑誌作りに関わって、とくに日本の渓流釣りの中身を身にしみて知るようになってから、日本の渓流釣りと水産と、そこらへんの重要なむすびつきは多少分かるようになった。
でもやっぱり、四十なかばをすぎたおっさんの今になっても、「魚をつくる」という言葉には、いまだに違和感がある。だからなんだといえばそれまでだが、たとえばどこかの湖で、子どもを動員してブラックバスやブルーギルを大量に釣り上げてゴミ箱へ山積みにして、そらこんなに駆除したぞ、湖がキレイになっていくぞ、と胸を張っている人々から顔を背けたい気持ちの根っことは、わたしの中ではわりとちかいかもしれない。