『メモリーズ』(樋口明雄氏著)紹介

樋口明雄氏の新刊短篇集『メモリーズ』(光文社文庫)がでた。先日大藪賞を受賞したベテラン作家のこれが初の短篇集とは意外だ。

表題作がとくにいい。この作品は4年前に初出時の早川書房ミステリマガジン上で読んでいた。同じ毛鉤でもプレゼンテーション次第で決定的な差異が生じることをわたしたちフライマンは先刻承知だ。しかし今回文庫で表題作を再読して印象の違いに驚いた。

『メモリーズ』はまったくの純文学作品である。初掲載がミステリマガジンとはふさわしくなかったな、というのが正直な感想だ。岩魚の一人称で物語がすすむ懐かしさを感じさせる設定だが、そこに作家の衒いや気負いはない。ただ淡々と水の中でまっすぐに語られる〝かつて人間だった岩魚〟の独語が心にしみる。

そして樋口作品ならではの直球なヒューマニティが本作にもしっかり投影されている。作家が計算し尽くした物語に翻弄され、読み終えてふうと深いため息をつかされる。

渓魚の美しさへどんなに焦がれたとしても、水面は彼我の決定的なあわいである。その手が届きそうで永遠に隔絶されている運命性を本作では改めて思い知らされる。『メモリーズ』を読んだ後に立つ水辺の匂いは『メモリーズ』を読む以前とは異なっているかもしれない。傑作である。

メモリーズ(光文社文庫)
『フライの雑誌』89号/樋口明雄氏最新作「薪を割る」掲載