『目の前にシカの鼻息』(樋口明雄著)の新しい広告:「まえがき」から

南アルプス山麓のログハウス発、
大藪賞作家のユーモアと人間味あふれる初エッセイ集!
『フライの雑誌』掲載作品+書き下ろし+インタビューをまとめました。

…ダウンベストをはおり、三和土で靴を履くと、仕事場のドアを開け、外へ出た。すぐ近くにある母屋に向かおうと、暗がりに一歩足を踏み出したところで、硬直した。

玄関先、数メートルと離れていないところに異形の影があった。

牡ジカである。

二メートル近い巨大な体躯。焦げ茶の冬毛が針金みたいに背中にケバ立っていた。太い胴体から凜々しくそそり立った頭部には、それぞれ一メートルぐらいの長さの立派な角が対になって生えていた。

そいつは、ぼくの目の前で躰を横に向けたまま、まるでどこかに展示された剥製か何かのように、 じっと動かずに〝存在〟していた。

一瞬、何の冗談かと思ったほど、そいつには現実感が欠落していた。

右手に握っていたぼくのライトの光を浴びて、ふたつの目が金色にギラリと輝いたかと思うと、牡ジカは真っ黒な鼻の下にある大きな口を開けて、草食動物独特の白い四角い前歯を剥き出した。

口蓋と鼻先から、呼気が真っ白な蒸気となって噴出した。

そして、ビールを飲み過ぎた酔っぱらいが洩らすゲップのような低い声で、ぼくに向かって「ぐふぅ。」と啼いた。

金縛りに遭ったように立ちつくし、なすすべもなく目を釘付けにしているぼくの前で、牡ジカはおもむろに頭を上下させ、巨躯を揺すると、ゆっくりと真横に歩き出した。

茫然自失のまま、ライトの光を向けながら目で追ったぼくは、昏い森の闇に消えていく牡ジカのシルエットと、目にも鮮やかな白い尻毛を、ただ見送るばかりであった。

やがて刺すような冷気がひしと押し寄せてきて、ぼくはぶるっと身震いした。

のちに、アンカレッジに在住している日本人のハンティングガイドが、感慨深げにぼくに向かってこういった。

─ そいつはアラスカよりも、ハードだな。

そんなハードな山暮らしが、その夜の出来事から一〇年以上経った今もなお、続いている。

たかが東京から車で二時間のこの場所で。

(「まえがき」より)

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『目の前にシカの鼻息 アウトドアエッセイ』
四六判208頁 税込1,800円
フライの雑誌社刊
ISBN978-4-939003-44-8

『約束の地』(2008)で日本冒険小説協会大賞・第12回大藪春彦賞ダブル受賞
樋口明雄 =著 Akio Higuchi

収録作品:

犬と歩む
ようこそ山小屋へ
あのころ奥多摩で
都会のナイフ
薪を割る
サルを待ちながら(NHK「ラジオ深夜便」で朗読)
クマと生きる
〝イセキ〟を渡れ!
インタビュー〈だんだん、自分には山暮らしが合っていると気づいていったんです。〉
犬が好き、猫が好き/犬の叱り方は子どもと同じ/「私の家族を守らなくちゃ」/犬は忘れやすい/私は風呂に入るべきじゃない/肝硬変と阿佐ケ谷と/来たりもんの心得

目の前にシカの鼻息(樋口明雄著)
目の前にシカの鼻息(樋口明雄著)
目の前にシカの鼻息(樋口明雄著)
目の前にシカの鼻息(樋口明雄著)