前任者の仕事の否定を選挙の旗印にした以上、現在進行形のアンチテーゼを披露する。アイデンティティを守るにはそれしかない。それは分かりやすい。
40年前の三里塚では、「建設を前提とする国との話し合いには応じられない。」が地元農民の清廉一途な方針だと報道された。
それが八ッ場では、「建設中止を前提とする国との話し合いには応じられない。」が地元観光業者の総意だと報じられている。
どちらの場合でも、国策に翻弄される気の毒な民衆がそこにいる。ボタンを右で掛け違えているか、左で掛け違えているかだけで力学は同じだ。まるで逆だが破綻はない。ニュースは便利である。
ただ前者の場合、反対運動の先鋭化とともに、それを地域エゴだと批難する視線が報道にこめられていった。対立を煽るのに倦み、うんざりして「いいかげんにしろ」と呆れたのだ。それは権力の意志と重なった。
今さら経済発展の時代でもない。ダム事業の嘘八百はすでに白日のもとにある。アンチな政治屋が絵に描いた餅はこれからどう転ぶのか。
ところで釣り師の立場では、ダムなんかないほうがいいに決まっている。そんなのあたりまえである。