とある自然保護団体のウェブサイトを読んでいた。川遊びや水辺の生物を愛好して、地域の川で活発に活動している人々の集まりだ。河川行政とも積極的に関わり、河川工事に意見を反映させるなど、実績も残している。希少生物の保護活動にはとりわけ熱心だ。
ある日の定期自然観察会の折、河原の水たまりで、アメリカザリガニのコロニーを見つけた。自然観察会の参加者は、手づかみでアメリカザリガニを何匹か採り、ビニール袋へ詰めた。
「このまま川に戻すのは法律に違反する。かわいそうだがビニール袋に入れて足で踏みつぶした。」と書いてあった。
この場合の法律とは、特定外来生物法を意識しているのだろう。しかしつかまえたアメリカザリガニを、その場の自然に戻す行為を禁止する法律は日本にはない。
自然愛好家たちの、善意の勘違い遵法精神によって、アメリカザリガニたちは殺された。これと似たような例は全国でたくさん見られる。
特定外来生物法が抱えるおそろしさの根っこは、こんなところにある。社会風潮と政治の流れ次第で、いのちの峻別に法律のお墨付きが与えられる。
善良な市民は「かわいそう」と言いながら、生きているアメリカザリガニをビニール袋越しに踏みつける。自分たちは「つらいけれど、いいこと」をやっている。そして何かしらの大きなものに自分たちが貢献している気持ちになる。
つらいことだけに、清々しさを感じるのかもしれない。
自分の頭で考えよう。
でないと、泥の中から誰かが握ってくる。
※念のため追記すると、アメリカザリガニは特定外来生物ではありません。また、特定外来生物だからといって踏みつぶさなければいけないというものではない、ということです。
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メダカ、トキ、ブラックバス、そして純血主義
ブラックバス排斥論者に、純血主義、国粋主義、民族主義などの
片鱗が見られ、おかしくなると同時に背筋が寒くなってくる世田谷区を流れる野川に生息するメダカはどのようなルーツをもっていれば許されるのか。中本賢さんの野川のメダカに対する気持ちと活動を知りつつ、ついそんなことを考えさせられてしまった。
中本さんは、数年前に野川にメダカのいることに気づき、昨年夏より、飼育、調査と強い関心をもつようになり、その増殖をも考え始めたら、メダカが「レッドデータ・ブック」にも登場し脚光を浴びるようになった。そこで、中本さんは世田谷区役所へメダカの保護を要請した。世田谷区の環境課調査啓発係は三年前よりその存在を知ると同時に、世田谷トラスト協会が新潟大学の酒泉満教授に遺伝的調査を依頼した結果も知っていた。
アイソザイムやミトコンドリアDNAについての分析結果は、野川のメダカは西日本型であり、東日本型ではなかったというものであった。その挙句に、野川のメダカは、「世田谷弁を話すメダカではなく関西弁だった」ということになり、人々をシラケさせ、野川のメダカは強い関心をもたれることもなくそのまま放置されることになった。そこに中本さんが保護を申し出ても、そういうことだからと区は動こうとはしなかったようである。
野生のメダカには変りがないのに、西日本型だとなぜ保護の対象にならないのか。今の時代に、ルーツはどうであれ、野生のメダカが生息する野川の環境は望ましいものなのでそれを維持するというふうになぜならなかったのか。
野川のメダカが東日本型なり、世田谷の地域集団(筆者はそれを「単位群」と言うが)であったとしても、湧水などが豊富だった時代に稲作の伝播とともに半家魚化したメダカが生息していることがそんなに望ましいことなのか。日本の水田の風景は自然でもなんでもなく、人為的環境改変の極致とも言われている。
こうじゃなきゃいけない、こうするべきだという、一種の純血主義が最近再び盛り返しているようである。
筆者は、今から二十三年前に今はなき雑誌『アニマ』の時評で、「外来動物と純血主義について考える︱求める自然が人によって異なり、と同時に人によって求め得る自然も異なっている」ということで、外来魚やブラックバスにふれながら、「いっぽう、外国産の魚はもとより日本在来のマス類でも、本来そこにいない魚は放流すべきでないという意見がある。一理あるが、放流した記録さえ公開保存すれば、そう目くじらたてることでもないように思う。動物の側からのみ見て、一つ一つの種についてこれは本来いるべきだ、いるべきでないと決めつけ、あくまで『自然』を追及し続ける一種の純血主義ともいえるものに疑問を感じる。」と書いている。
この考えはいまでも変らないし、ここ四、五年のブラックバスをめぐる論争でもこの基本的スタンスで発言している。今の子供たちにとって、求め得る自然や釣りとは何かと考えたら、関西弁であろうと目の前にいる野生のメダカであり近くの池のブラックバスとなるのは止むを得ないと考えるし、それが本来あるべき自然や研究者や環境保護論者やある種マニアックな人々の求める自然とちがうからといって、子供たちにあきらめろ、待てとは言えない。
(中略)
先に述べたアニマの時評「外来動物と純血主義」の最後は次のように終っている。
「こういったこととは別に、日本人の起源について、日本列島にいつの時代か外来の民族が侵入し、それが繁殖定着し、しだいに勢力を広げた現在に至っているという説がある。そういった視点から、日本の自然及び日本人の自然への対し方を再点検することも興味深い。」
これを読まれた、淡水魚保護協会の木村英造さんが、「この外来の民族というのは、アメリカの進駐軍(占領軍)のことか」と問われたのには、そういう見方もあるかとびっくりした。そして木村さんは、機関誌『淡水魚』で、外来魚特集をやるので、ブラックバスについて書いてくれと依頼された。
ここいらのところ、日本における外来の民族、外来としてのブラックバスの見方などいろいろ重ね合わせて見てゆくと、ブラックバス排斥論者に、純血主義、国粋主義、民族主義などの片鱗が見られ、おかしくなると同時に背筋が寒くなってくる。
メダカ、トキ、そしてブラックバスについて、どう考えるかは、筆者がこれまで言い続けて来たことを最近酒泉さんも言っている。
「純血がいいんだということを強調するのも、行き過ぎがあるとあまり良くないなと思います。そういう生息環境がきちんと保存されている方が大事ですからね、純血よりも。特定の生き物の純血を守るだけじゃなくて、受皿としての環境がきちんとしているのが大事だと思います。」(水情報/Vol. 19/No4/1999-4)
まさに、この視点で、ブラックバスについて長良川河口堰建設との関連において検討を申し込んだがゆえに、本多勝一氏は対応できなかったのかもしれない。本多さんは、
(後略)
※単行本『魔魚狩り ブラックバスはなぜ殺されるのか』
水口憲哉著/フライの雑誌社刊/2005年3月10日第3刷発行
第二章〈メダカ、トキ、ブラックバス、そして純血主義〉(一部)
初出は『フライの雑誌』第46号(1999年6月)