誰が言い出したか知らないが、多摩川のことをアマゾン川に引っかけて(外来魚だらけの)「タマゾン川」と呼ぶ言い方がある。多摩川のありようをからかうような、思慮の浅い呼称だとわたしは前々から感じている。
じつは根は深い。そもそも21世紀の多摩川にとっての在来魚とは何か、外来魚とは何か、その基準はなんだ、いったい誰が区別するのかというテーマだ。生物学より社会学に近い。
多くの人が多摩川と人との暮らし、歴史と文化を理解した上で、身近に流れている多摩川を大切に想っている。その営みの一切合切を「タマゾン川」の一言がぶちこわす。皆の前に出てきた大皿料理の上へ、がさつな誰かが盛大にクシャミするようなものだ。
世の中にはいろいろな人がいる。どんな価値観を持って、どんな言葉を使おうが自由だ。同じように、多摩川を「タマゾン川」と呼んで鼻を鳴らす人とは、あまり友だちになりたくないとわたしが思うのも、また自由だ。
下の写真はいずれも多摩川の中下流域だ。東京都内の多摩川の水は、雨水と下水処理場から排出された処理水がほとんどなのだという。化学物質に弱い体質のわたしは、多摩川の下流域を半日釣り歩いていると、目と喉と頭が痛くなる。熱が出て寝込むこともある。
それでもこの川は美しい。
スモールマウスバスが繁殖しようが、アリゲーターガーが浮かんでいようが、ゴマフアザラシのタマちゃんがくつろいでいようが、わたしにとって多摩川はなくてはならない川だ。小学生の頃から多摩川を母なる川として育った。
そして今日も重機は我がもの顔に多摩川の河原を走る。
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