小社刊行『文豪たちの釣旅』著者、大岡玲さんの「超漢字マガジン」連載エッセイ、〈日本語は、頑固なダブルデッカー〉最終回第12回が公開された。
かつては「叡智」を語る「国語」だったフランス語やドイツ語も、政治経済のアメリカ一極集中化や、やはりアメリカ発のインターネットの威力によって、いまや英語の「普遍語」化に屈伏しつつある。いうまでもなく、わが日本語もそうであって、
自由奔放な意識を持った漱石であれば、水村氏が指摘するような現状に対して、むしろ腕まくりをして日本語へのてこ入れに奮起するように思えてくるのである。
むかし、といってもたかだか30年程前、フライフィッシングの文化が日本に定着しはじめた頃、それを紹介する書籍や雑誌は、とにかく英単語をカタカナにしまくっていた。カタカナで書くのがカッコいい、という時代でもあった。しかし読者としては、とくに初心者にはそんなカタカナ語の洪水の文章は読めたもんじゃない、こんなの日本語じゃないと悪評ふんぷんだった。
そこらへんを逆に意識して、むりやり日本語訳した漢字熟語に、カナ化したフライフィッシング用語をルビでふるという、裏返しの高等テクもあった。芦澤一洋さんがよくやっていた。〝浮上波紋〟に〝ライズ・リング〟というルビがあてられているのを見た時は、おおおっ、とうれしくなったものだ。たいへん読みづらかったけど。
現代はどうかと言えば、おそらくフライフィッシングの専門誌におけるカタカナ語の割合は、当時よりもさらに増量されている。かつ、〝なにもそこまでカタカナで言わんともええんちゃう〟と突っ込みたくなるくらいの、最新カタカナ・フライフィッシング用語も、『フライの雑誌』以外の専門誌ではずいぶん増えている。(本誌はそれほど多くないと思う)
フライフィッシング関連のカタカナの大洪水を、カタカナ洪水だからといって非難する層は、30年前と比べ現代にはそんなに多くないのではないか。それはたぶん、日本語をふだん使っている人々のデフォルトでのカタカナ語彙そのものが、はるかに増えているからだろう。って、いまデフォルトって使ってみた。これなど〝なにもそこまでカタカナで言わんともええんちゃう〟の典型だ。
とまれ、年を追うごとに、日本語におけるカタカナ語のボキャブラリーは太郎の屋根に雪ふりつもるように、しんしんと増え続けている。パソコンやインターネット系の文章なんて、地の文章の八割くらいがカタカナじゃないかと思うプロトコル。
異文化圏の人々が日本の文学、ひいては日本語に興味を持ってくれる土台が生じたなら、今度は日本語の来し方を踏まえ、大胆に新しい言い回しや造語を数多く創造して「叡智」を語りうるエネルギーを取り戻す。あの漱石だったら、そんな「クールジャパン」、おっと、「超かっこいい日本」の言葉を創ろうと努力する気がするのだ。あんな大才にはもちろん到底及ぶべくもないが、私もそんな気分でこれからも日本語と遊んでいきたい
わがフライフィッシングという欧米由来の趣味ごとでは、もうずっと以前から、日本発のデザイン、アイデアから生まれた製品や技術が欧米へ逆輸出され、向こうの釣り人たちの日常へ当たり前に浸透している。
アニメなどの萌え系文化に接するとき、おっさんはしばしば、〝なにもそこまできゅんきゅんしなくてもええんちゃう〟な言葉づかいや、ひらがな表記に出逢って、悶える。2ちゃん用語だって30年前にはかげも形もなかった。若者のつもりで得意げに使いたがるおっさんはドキュソそのものだ。しかしフライフィッシングと同じで、今から10年もたてば、そんなきゅんきゅんもドキュソも、日本発信のオリジナルとして海外で〝デフォ〟になっていないとは誰もいえない。
言語や文化なんて刻一刻と変化する。昨今「日本人としての誇りと伝統」みたいな実体のない蜃気楼を持ち出して、下々のものを統率しようとする日の丸政治家や文化人がわらわらと湧いてでている。そのやり口はまことに賢い。そんなのに踊らされるほうも踊らされるほうだとは思うが。
以上、もちろん大岡玲さんが〈日本語は、頑固なダブルデッカー〉の連載で「日本語の来し方を踏まえ」、「これからも日本語と遊んでいきたい」とおっしゃっている中身は、本欄で触れたような低いレベルのお話ではまったくない。ぜひリンク先をお読みください。第一回から通読することをおすすめします。
わたしなぞがえらそうに言うものではないが、大岡さんのつむぎだす日本語は、同時代の書き手のなかで群を抜いて美しく豪奢だ。読むことそのものが愉しい知的冒険となる日本語にはそうそう出逢えない。
ネット社会の発達に伴い、モニタ上でこんな上質な文章に誰でも気軽に触れることのできる現代は、人類が文字を手にして以降でもっともテキストに親しみやすい環境にある。( ;∀;)イイハナシダナー