未開封のAmazon箱が、玄関にもう三、四日も転がっている。
うちにはひっきりなしにAmazon箱が届く。すでに自分がいつどんな本を購入したのか分からなくなっている。本当は書店の店頭で買いたいが、こんな田舎に住んでいると、わたしの欲しい本は、身近な書店にはきっと並ばない。いきおい通販のお世話になる。独自路線の頃のビーケーワンは買い物自体が楽しかった。
Amazonはうちのような零細版元の本には、ひじょうに、ひじょうに、ひじょうに、冷たい。というより相手にしてくれない。だって在庫を持ってくれない。委託なのに仕入れてくれないんじゃ、どうしようもない。千葉の方にあるらしいばかでかい本の倉庫は、フライの雑誌社には何の関係もない。
そもそも一日に新刊が200点も出る日本の出版状況がおかしい。いや、文化の広がり的な観点からは、色々な出版物が世の中へ自由に勝手に出されている状況は喜ぶべきだ。にしても200点はやりすぎだ。本と書店がきのどくだ。
要は、Amazon始め世の中の書店は、フライの雑誌社の本だけ並べていればいいってことだ。
というのは冗談だが、いま自分でこういうつまらない冗談言ってみて、ちょっとゾッとした。
わたしは全体主義とかファシズムはこころの底から嫌いだ。でも、もし何かの間違いで自分が権力を握ったとしたら、ものすごい横暴な専制君主になる自信がある。ネロくらい裸足で逃げ出す。ヒトラーだって泣いて許しを請うに違いない。安倍首相は揉み手で近づいてくるかもしれない。まあそういう間違いは、わたしが生きているうちは起こらないと思うから安心している。
でも、もしわたしが権力を握ったら、自然豊かな川をまるごと一本入手して、その畔で七輪会やりながら、みんなでいい釣りするくらいのことは成し遂げたい。
だからだれか権力ください。
「ちょっとそこの子ども、玄関にある未開封のAmazon箱を持ってきてくれ」
「自分でとってくればいいじゃん」
「ばかめ。パパはいま風邪ひいてコタツから抜けられないのをお前は分かってるだろう。ゴホゴホ」
「ふあい。はいどうぞ」
「開けてくれ」
「開けていいの!?」(開けられることがうれしいらしい)
「いいよ。なんの本を頼んだのか分かんなくなっちゃったんだよ」
「(ベリッ)…うどんだ」
「はい?」
「Amazonからうどんが届いた」
「お前、いつのまにうどんなんか頼んだんだ!」
「頼むわけないじゃん。ほらうどん」
「あ、うどんだ」