1975年から1992年まで財団法人淡水魚保護協会の機関誌『淡水魚』『淡水魚保護』が発行されていました。川と湖に棲む魚について研究者と釣り人、自然愛好者たちからの声を横断的にまとめた、たいへん充実した出版物です。
1922年生まれの木村英造さん(93歳)は、淡水魚保護協会の設立者で機関誌の編集兼発行人を長年務められました。淡水魚研究・保全への功績は多方面から大きく讃えられています。
現在木村さんの許可を得て、鎌倉市在住のフライフィッシャー、石川晃一さんが『淡水魚』『淡水魚保護』の電子書籍化に取り組んでいます。詳細については、石川晃一氏のブログをご参照ください。
電子書籍化にあたって、石川さんの依頼で木村さんが2014年3月に書き下ろした序文「回想-序に代えて」を、『フライの雑誌』第105号へ掲載しています。『淡水魚』創刊当時の知られざる経緯、爆発的な人気を博した増刊特集号の編集秘話など満載です。文末の一語にぐっときたという読者も多いようです。
以下、本欄で「回想-序に代えて」の一部を紹介します。(編集部)
回想 ─ 序に代えて
『淡水魚』『淡水魚保護』および特集号の電子書籍化にあたり木村英造
私は1971年(昭和46年)に財団法人淡水魚保護協会を、大阪府の許可を得て設立した。基金1000万円の小さな財団である。国の許可を得るには少なくとも3000万円の基金がないと無理だと言われて、大阪府で設立許可を受けた。当時は公立の環境団体は皆無だった。
何をやるのかと言われて、絶滅に瀕している希少淡水魚を守るのだと唱えた。ただ一応大阪府下を目指すが、その目標とする範囲は大阪府に限らないという暗黙の諒解を得てはじめた。最初は淀川に生息するコイ科のイタセンパラとドジョウ科のアユモドキの保護に熱中した。
協会は設立当初より会員募集を始めていたので、毎年会員向けの事業報告を出していた。3年後にこの事業報告を入れた年間機関誌を出すことにしてはどうかという考えが自然的に発生した。協会周辺には淡水魚マニア的な市民や学生が集まってきていたし、加えて研究者のなかにも関心を寄せる人が少なくなかった。彼等を組織して、淡水魚に関する情報を編集しようではないかと考えた。執筆者集めは実にうまくいって、元老中堅の研究者をはじめとして、市民出身の淡水魚愛好家がワンサと加わり、敵方の建設省淀川工事事務所長まで参加して、無名の協会機関誌としては出色のものができ上がった。B5版135頁弱で、2000円。何とか赤字は免れたし、世間的にも好意をもって迎えられたように思う。
こうして協会機関誌「淡水魚」は発足して、2号から5号まで快調に続いた。ことに3号誌で中村守純博士の御尽力により、魚類学者であらせられる皇太子殿下へのインタビュー記事を掲載できたことで、協会への信用は著しく増したようである。
ところが6号誌以降このような順調な発展に影がさし始めた。会員の読者から内容が専門的になり過ぎたという苦情が来るようになったのである。本が送られてきても、ただ積んでおくだけになったという通信にはショックを受けた。理由は次の通りである。
学術誌が英文化されてきて、和文ペーパーの掲載先が制限されてきたので、研究者が投稿先として本誌を利用する傾向が出てきた。本誌が専門家向きになってきて、淡水魚愛好家向きでなくなってきたのである。そのせいかどうか分からないが、会員数も1000人あまりで低迷していた。機関誌は2000部でないと採算がとれない。
私は一歩退却を考え始めた。機関誌の性格を変えねばいけない。実際には「淡水魚」の発行は13号まで続いたが、それには意外な経済状況の好転があったのである。私は淡水魚発刊の傍ら、淡水魚増刊として「イワナ特集」と「ヤマメ・アマゴ特集」の発刊を企画していた。そんな余力はないことは分かっていたので、秘かに進めていたのだが、その原稿や掲載写真がみるみるうちに集まってきた。イワナ特集が2000部発行で、3500円。ヤマメ・アマゴ特集が4800円の定価になる。そんな高いもの売れるものか、協会を潰すぞという圧倒的な声を押し切って、発刊に踏み切った。
これが何と売れに売れたのである。値段は高いけれど、人気魚種についてこれ程の内容のものは当時なかった。1980年発行のイワナ特集は ・・・