嘉村の小説は粘着質の視線とマゾヒズム、そして薄ら寒いユーモアの混合体だ。ユーモアは下から仰ぎ見る者の怜悧な観察から生じる。 …インタビュアーはインタビューイーにとって嬲り者である。嬲られてなんぼ、引き出していくためには、随喜の涙を惜しんではならない。そういう性格の仕事である。ゆえに嘉村礒多は葛西にとっての究極のインタビュアーであったと言えるだろう。相手を仰ぎ見、完成まで寄り添う。(葛西善蔵の口述をした嘉村礒多 岸川 真)
『葛西善蔵と釣りがしたい』なんてタイトルの本をだして、当然のように「葛西善蔵ってどういうひと」と何人かに言われた。「どういうひとなんだろう」と困っていたところに、こういうすてきな文章をみつけました。
ほんというとわたしは葛西善蔵よりもこの文章中の主役である嘉村礒多へはるかにシンパシーを感じるのだけど、それを認めちゃうとこんなわたしの人生だっていろいろつらい。いまもいままでもこの先も。
だから葛西善蔵のあっけらかんとした放縦はいいよね、という線で納得させて釣りにでも行こう。編集者なんてマゾヒストでないとやってられんと、抜き身のヤッパでものど元に仕込んでおこう。