色ぼけカブトムシ

うちの飼育ケージのなかには、メス3匹、オス2匹のカブトムシがいることがわかった。「わかった」というのは、幼虫の段階から見て見ぬふりをして、昼間土中で寝ている彼らを掘り起こしてまでは点呼していなかったために、これまで総数を知らなかった。夜になるとカブトムシは三々五々、土の中から現れてきて餌をあさる。しかし観察眼の甘い私にはどれがどれだかよく分からなかったのだ。正直言うとどうでもよかったっていうか。

昨日の深夜、ふと明かりをつけてケージを覗いてみたところ、左の端っこでオスとメスのペアが交尾をしていた。やっとるやっとる、お盛んですなあ。すると右の端っこでももう1ペアが交尾をしていた。まるでカサノバ城のようだ。で、持ち上げたふたの網にもう一匹、メスカブトがくっついているのに気づいた。それでようやく、うちのケージのなかに合計5匹のカブトムシがいることがわかった次第だ。

要は、今年の幼虫たちはすべて無事成虫になっていたのである。幼虫たちは勝手に成虫になり地面に這い出て、知らないうちに私の用意した餌を入れ替わり立ち替わりシェアしていたらしい。交尾で数を把握するというのがどうかと思うが、まずはよかった。今年のカブトムシ幼虫飼育は成功だ。自慢じゃないが私は子どものころから数えて数百匹単位で殺してきましたよ。

『フライの雑誌』第4号に、牧田肇氏の「残酷教育」という文章がある。少し引く。

「形而上、形而下を問わず、十分に慈悲深い人間であるためには、残酷さへの欲求をどこかで解放しておかなければならない。このために、人々は山菜採り、昆虫採集、釣り、狩猟をする。このような殺生を通じて、人々は自らの残酷さに直面するとともに、残酷さを解放した健全な生活をおくることができる。とくに子どもにとって、人間が本能としての残酷さを持った生き物だということを真に自覚した大人になるには、成長期にかなりの殺生をすることが必要である。子どもにcatch and releaseを教えることはむしろ有害だと思う。なぜならば、もともと生命を奪うことをのぞむ本能にしたがって捕らえた魚を、最後の段階で放すことは、最も不自然なかたちで本能の欲求をねじまげることだからである。人格が十分に形成されていない子供たちにとっては、欲求不満だけが残り、これが累積していくおそれがある。」(117頁)

1988年発表の作だが、これだけの引用でもこの文章が今の時代にこそ再読されることが有意義なのを理解していただけると思う。残念ながらこれを収めた『フライの雑誌』第4号も、再録した単行本『そして川は流れつづける』も版元品切れです。小社の刊行物は数が少ないので在庫がある内に手に入れてください。お願いします。

食って寝てやって食って寝てやって、卵産んで放置して死ぬ。色ぼけカブトムシたちを部屋の片隅で飼育しているだけでも、子どもに生命の単純な本質とそれ故の大切さを伝えることはできる。まして釣りで魚を捕り、殺し、食い、たまに自分の意志で逃がしてやることをもってしてをや。

キャッチ・アンド・リリースが必ずしも善悪の善ではないことへの理解は、ここ数年で釣り人のあいだにだいぶ広がってきた。リリース禁止の法制化にモヤモヤした不条理感をおぼえるのと、ノーキルの強制に違和感をおぼえるのは同じこころの動きである。その文脈で、私が『フライの雑誌』85号に書いた「挑発」には、残念ながら正面きった反論がなかった。リリースは各人の自由である。その自由を担保できる自然を残そう。かんたんな道理だ。

蛇足的に言えば、規則やマナーを守ることでは子どもの本能を教育できない。釣り雑誌も何とかの一つ覚えみたいな〈キャッチ・アンド・リリース区間設置の立役者〉という紋切り型の呼称を無検証に使用することは、いいかげんに自戒したほうがいい。釣り人はそんなにばかではない。