「東京で雪」の話題になると必ず生中継されて、「まだ降ってませーん」「先ほどついに降り始めましたー」「商店街のアーケードが落ちました」とか言われる、わが町八王子。ま、うちは隣の日野市だが。
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学生のとき、自動車の免許取り立てで千曲川の解禁日をめざした。解禁前日の午後おそくに立川の自宅を出発して、お金もないので下道走行で川上村へ。
当時はまだ「渓流釣りは朝一が勝負」という昔ながらの観念に取りつかれていた。国道20号でわたしを追い越して行く他の車はすべて、同じく川上村を目指している先行者のように思えた。
川上村に着いたのはすっかり夜だった。お腹がすいていたけど食事できるお店がない。そもそも手持ちがない。遊漁券分だけは確保してある。信濃川上駅前のちょっとした広場に車を停めて、このまま「ビバークしよう」と決めた。「ビバークする」という表現が自分で気にいった。
しかし川上村は寒い。標高1100メートル超えである。出先で夕食を食べられないほどの貧乏学生であるから、もちろん寝袋も持っていない。ダウンジャケットは夢のアイテムだ。経験が浅いから下準備もできていない。帰りのガソリンが心細くてエンジンもかけられない。星空がきれいだ。
そこからどうやって夜をのりきったのか。若かったからなんでもできた。今のわたしならまちがいなく凍え死んでいただろう。〈中年男性、渓流解禁前夜に車の中で孤独な凍死〉とか新聞に書かれるんだろうな。貧困問題に中途半端な一石を投じて人生を終わるのは、ちょっといやだな。
渓流釣りは朝一が勝負だと思っていた若いわたしは、とうぜん夜明け前から釣り支度をして川へ向かった。川が凍っていなかったのは幸運だった。外気温はマイナス10何度だが、頭のなかはすでに沸騰状態だ。ライズライズライズライズ、ライズはどこだ。
ライズなんかどこにもない。そんなはずはない。『ザ・フライフィッシング』にだって『Angling』にだって『FFJ』にだって『フライの雑誌』にだって、2月の川上村ではライズを待ってドライフライでイワナを釣るんだと書いてあった。ライズがなければ釣れない。そのまま川岸に固まってライズを待った。
午前11時30分、空から雪が降ってきた。「あ、雪だ」と気づいてすぐに本降りになった。粉雪が川面いちめんに注いで溶けてゆく。するとライズが始まった。あっちにもこっちにも。ライズライズライズライズ、これがあの有名な川上村のイワナのライズなのか。イワナが雪を食べるなんて本にも雑誌も書いていなかった。
雪を食べているならと、手持ちの中でいちばんちいさい白いミッジフライを結んだ。雪のイミテーションだ。ダイワのフライロッドをぐっと握り直して、リールからラインを引き出したときの心臓の震えを今でも覚えている。
その日、イワナを一匹だけ釣った。買ったばかりの一眼レフで口をぱくぱくしているイワナの写真をたくさん撮った。石の上に頭を置いたり尻尾を動かして角度をつけたり、撮るだけ撮って、いじるだけいじって「リリースだ! また会おうね!」。
実家を出て一人暮らしするとき、そのとき撮ったお気に入りの一枚を一緒に持って出たが、どこかへしまい忘れていた。何年かしてひょっこり出てきた紙焼きをあらためて見ると、25センチくらいとそんなに大きくもない放流もののイワナだ。
興奮して撮っていたらしく、横たわったイワナの脇には引き出したフライラインがそのままスパゲッティのように、だらしなくぐるぐる巻きになっている。
このイワナは雪のイミテーションで釣った。(ちがうとおもうけどね)
せっかくなので、当時自分が編集を預かっていた『トラウトフォーラム・ジャーナル』にそのイワナの写真を使った。そういうのは編集者の特権だ。だからあの時のイワナは今でも紙の上で生きている。
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