(ネタバレ?)芹沢博士はなんか人類の…|ハリウッド「ゴジラ」レビュー

先週は「ゴジラ」と「グランド・ブダペスト・ホテル」のどちらを観るかで迷い、話し合いの結果、「グランド・ブダペスト・ホテル」を観たわけだが、昨日は「ゴジラ」を観た。結局両方観てしまった。

というわけで、昨日は新宿イマサカレー、新宿ピカデリー「ゴジラ」、銀座ランブル、東銀座オムライス、南阿佐ヶ谷散策経由の阿佐谷吐夢で締め。私的フルメニューを堪能した。

「グランド・ブダペスト・ホテル」は、まあよかったんだけど、「かわいくておされで楽しい映画だったね。」で落ち着く感じ。一方、ハリウッド「ゴジラ」は、鑑賞後のエモーションについて、誰かしらと何かしらを語りたくなる。この二作を二週連続で観た方は同じように思ったのではないか。

ていうか、わたしよっぽど「ゴジラ」観たかったんだな。

「ゴジラ」であるが、実際の原水爆実験の歴史に重ねた神話の捏造、長い前口説の末に巨体チラ見せ、やっと出たと思ったらそれ別のやつじゃん、みたいな感じで前半戦。怪獣ものの王道である。

焦らされた末にやっと出た、妙に脚が細長くてスタイルのいいムートーに、ジャミラが重なった。ムートーは哲学存在的にジャミラそのものである。渡辺謙の芹沢博士は、結局あれはなんか人類の役に立ったのか? むしろ全ての災厄を引き起こしたのが芹沢博士だという、ひねくれさん達がこぞって口にするだろう見解を、わたしも支持したい。

作中では、ゴジラは〝原始生態系の頂点に君臨する神〟だとされている。ゴジラが自然界の調和を乱すものを懲らしめに登場する神ならば、ゴジラが駆逐するべきはムートーの夫婦ではなく、人間のはずだ。でもゴジラは人間はガン無視してムートーへ怒りをむき出しにする。U.S.A.ハリウッドのご都合主義的人道観がばりばりなのはいつも通り。

むしろムートー夫婦は、ただ大好物の放射線をたらふく喰って、人並み(?)に子育てしたかっただけだ。それなのに大事に育てていた子どもらを生きながら人間に焼かれた。子どもを皆殺しにされてお父さんは墜落、お母さんはゴジラに顔を裂かれてブアーとか、あまりにもかわいそう。「イイ奴とは自分に都合のいい奴である」と言ったのは談志だが、自分に都合が悪いと認識すれば、相手が怪獣だろうが人間だろうがなんでもするのがアメリカ式、とか言わない。

ムートーとの初邂逅で、ゴジラは怪獣プロレスのゴングが鳴ったと同時に(鳴らないけど)ドスドスと走り寄り、ムートーとがっちりロックアップする。一直線なゴジラのファイトスタイルは、石井智宏選手、松田慶三選手、関本大介選手らのそれを彷彿とさせる。岩のようなプロレスだ。ムートーの方はコーナートップから(コーナーないけど)、流星キックとかハイフライフローとか、立体的な四次元殺法を駆使する。そもそも一対二のハンディキャップ・マッチなのだから、圧倒的に有利なのはムートー夫婦軍である。

しかし。

ゴジラはやっつけるだけなら最初からブアーの飛び道具を出せばいいのに、出さない。スピアとか背負い投げとか、あくまで一進一退の肉弾戦で観客(?)を煽り、試合(?)を盛り上げる。押されに押されて負けるんじゃないかとハラハラさせ、流れの中で相手の良さを十二分に引き出してから、必殺技一発で勝利する。さすがは絶対王者だ。プロレス哲学はウルトラマンと共通する。円谷プロの伝統を理解し踏襲しているハリウッドを褒めよう。ちなみに「ウルトラマンはプロレスマニア」論の初出は、「ストップ!! ひばりくん!」だと思うがどうでしょう。

この日は夏休み中の近所の子どもを連れて、「ゴジラ」を観ていた。二人で横並びになって3Dメガネを装着し、あっというまの2時間だった。見終わって映画館を出たら、開口一発目に何を言ってやろうかと、わたしはエンドロールを見ているあいだ、ずっと考えていた。

映画を観終わった直後の会話は、剣豪どうしが初太刀を交わすようなものだ。子ども相手だからと言って手は抜けない。容赦はしない。

靖国通りに出ると、まだ午後の日射しがじりじり照りつけていた。わたしはを太陽を顔面に感じながら、手をつないでいる近所の子どもへ向かって言った。

「分かってると思うけど、ムートーといってもシャイニング・ウィザードじゃないぞ。」

「ぷっ。」

子どもがウケてくれたのは、この日最大のメガヒットであった。

ちなみに今日は近所の子どもにとって初めての字幕映画だった。字幕大丈夫だったか? 「ぜんぜん問題なかった。」

そうかそれはよかった。お祝いにジュースを買ってあげよう。

もう吹替えはなしな。

釣りだけしてればいいのにね。「葛西善蔵と釣りがしたい」|釣り人なんてどうせはなから酔っぱらいである。
申しわけありませんが一般人です。ディープな怪獣マニア話をしたい人はあっちへ行ってください。