(何処からか、救いのお使者(つかい)がありそうなものだ。自分は大した贅沢な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五円もあれば自分等家族五人が饑(う)えずに暮して行けるのである。たったこれだけの金を器用に儲けれないという自分の低能も度し難いものだが、併したったこれだけの金だから何処からかひとりでに出て来てもよさそうな気がする)彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヵ月は、それが何処からも出ては来なかった。何処も彼処も封じられて了った。一日々々と困って行った。蒲団が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなった。自滅だ――
葛西善蔵の「子をつれて」(1918/大正七)からの引用だ。〝月に三十五円もあれば〟というのが、現在の金銭感覚でいうとどれくらいかというと、30万円から35万円くらい。なるほど家族五人で楽勝に暮らせる。そんな大金が〝何処からかひとりでに出て〟くるわけないじゃん。地道に働こうよ善蔵。
ちなみに生前の善蔵さんは、妻の実家・家族・友人・知人・出版社・大家・旅先・近所の人などなどなど、ありとあらゆる本当にあちらこちらへ、手当り次第に大小の借金を重ねていた。近くお金が入る予定だから、入ったら返すからと言って、バンバン借りた。お金が入ったら端から呑んでしまい、そのまま死んだ。今だったらとっくに刑務所行きだ。やっぱりお金はひとりでに出てこない。作が書けないなら、他の労働しようよ善蔵。
最晩年に厄介になった酒屋へのツケは、千二百円余りだったという(葛西善蔵生誕130年特別展図録記載・青森県近代文学館)。作中にも登場するこの酒屋の主人、丸山老人は、酒屋としてアルコールをボランティア提供することで、葛西善蔵の芸術を応援している気概だったんじゃないかと思われる。どっちもわけわからん。ちなみに〝千二百円余り〟を現在の貨幣価値に直すと、だいたい300万円から360万円といったところ。呑みすぎよ善蔵。
〝月に三十五円もあれば〟のようなことを考える人間は、だいたいにおいて気力・体力ともにネガティブである。世の中からは怠け者と後ろ指を指される。一億総活躍から先頭きって転げ落ちるタイプだ。葛西善蔵はライザップには通わない。わたしも若いころから〝月に三十五円もあれば〟というようなことは常に考えている。(釣り人ってみんなそうじゃないですかね) 今でも〝口座に間違って大金が入っていればいいな〟と思いながら、ATMの前に立つ。むしろ〝間違って増えてろ〟と念じながら暗証番号を打ち込んでいる。
でもあれ、間違って入金されたお金を、間違ってると知りながら引き落として使っちゃうと、詐欺として犯罪行為になるらしい。銀行から振り込まれていた何千万円かを、勝手につかって返さないで捕まった女の事件を、新聞で読んだ。いったん自分の口座に入ったお金は、〝救いのお使者〟、神様からの贈り物だと思って、ありがたくいただくに決まってるじゃないか。銀行ひどい。使えないんじゃ意味ないじゃん。葛西善蔵なら電光石火で呑んじゃうね。
かさこじぞうが戻ってきて、「あの米俵とかモチとか間違いだったからやっぱ返して。」とか言うか。かさこ・イズ・デッド。
というわけで(どういうわけだ)、忍野と河口湖へ行ってきた。