釣り師の脳

御殿場にある管理釣り場へ出かけた。帰り際に管理人のスズキさんからホシスズキのいいのをもらった(釣ったではない)。家に戻ってから深夜の料理大会。淡白な身とシンプルな仕上げの相性がよかった。

翌日からは上州・信州へ出張だ(釣りともいう)。松井田のフライショップ・アンクルサムさんへ立ち寄り、店主の小板橋さん行きつけのレストランを教えてもらう。人生晩境へ至り、自分は晩飯をせいぜいあと千回食べられるくらいだろうと山田風太郎は言っていた。

わたしの今日は納得のいく昼飯だった。

軽井沢から佐久を経て、信州中野に宿をとった。北長野を流れる手つかずの渓流が今回のお目当てだ。人工物のまったく目に入らないブナ林の渓流で、黄金色したイワナが釣れる。朝早く宿を出て、林道を奥へ奥へとたどり、山に深々とわけ入ってしまってから、今日の自分の食べ物を仕入れておくのを忘れたことに気づいた。

釣りに出かける前、一般に釣り人の思考能力は、通常の一〇分の一以下に減退する。脳がちっさくなる。釣り場でよくある「あ、リール忘れた! 長靴も忘れた!」といった信じられない大ポカもそのせいである。もうすぐ釣りができるぞという高揚感による脳細胞の一時的な欠損と思われるが、対処法はまだない。

わたしはイワナを自分の作った毛バリで釣るための準備は万端で川に立っている。しかし魚をニセのエサで釣ろうと夢中になったあまり、自分のエサを忘れた。かといって毛バリを自分で食べるわけにもいかない。

この川は町から一時間以上離れている。今から食料を求めて山を下りる気には到底なれない。ええい、釣りだ釣りだ。ふときがつくと、朝六時から夕方六時まで沢水だけ飲んで、ぶっ続けで釣りしていた。食料を忘れると釣りに集中できるからいいこともある。というのは負け惜しみだ。腹へった。

釣り師の脳の悲劇的な軽さについて、さらに補足したい。

〈今年のカラフトマスの岸寄りは例年の二〇七倍です〉

北海道新聞にこんな記事が出ていた。カラフトマスは二年おきに遡上数の波がある。今年は大当たりだということだろう。そうしたら今週、道北出身で現横浜住民の、友人のHさんから電話がかかってきた。

「ねえ、いまお盆で北海道に帰省しているんだけど、どっかいい情報知らない?」

さっそく「今年のカラフトマスは二〇七倍だってさ。」と教えてあげた。

するとHさん、一気に興奮してうわずった声で、

「すっげえ! いつもなら一匹しか釣れないところが今年は二〇七匹釣れるってことか! おれこれからマス釣り行ってくるよ。ありがとう!」

と電話の向こうで大喜びである。

わたしは電話を切ったあと、「単純だなおまえは。」とつぶやいた。

ふだんのHさんは優秀なエンジニアだが、釣りが絡むと脳はこんなものだ。

理系だから計算は速い。

・・・

(「葛西善蔵と釣りがしたい」より)

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