いま北海道は秋のドライフライシーズン最盛期だ。わたしも20代の頃は、体育の日前後を目指して、道東の川と湖へ一週間くらいの釣旅に出かけていた。いまは歩いて2分の地元の川で、夕方だけのオイカワ釣りに興じている。
「釣りは、ふつう、たのしい遊びだが、沈んだ気分をまぎらすために、釣場へ出かける人も多いのである。この世で、志を得られないとき、自分で自分を慰める最良の手段として、釣りが残されている。釣りしかないだろう。」(伊藤桂一『釣りの風景』)
一昨日の夜、ふと思い立って、世代が同じ寄稿者さんの携帯電話(ガラケー)に、地元の川でのオイカワ釣りの写真とともに、「今日はこんなに入れ食いでしたー。」というメールを送りつけた。
すると折り返しで返信をもらった。「あなたはオイカワ釣りに何を求めているんですか?」
わたしは即座に、「人生です。」と返信した。
「いい答えですね。」と褒められた。
この場合、〈あなたは何を求めているのですか〉という質問への返信だったのだから、国語の回答的には、「わたしは〝人生〟を求めています。」という意味になっていたはずだ。
でも、本当はそうじゃなかった。
わたしの言いたいことは、そうじゃなかった。