【公開】「釣り場時評75 ダムも原発も公害の発生源である ─行政と企業の掲げる〝公益〟の嘘」(水口憲哉)|第102号より

フライの雑誌-102号(2014)より、「釣り場時評75 ダムも原発も公害の発生源である ─行政と企業の掲げる〝公益〟の嘘」(水口憲哉)を公開します。

本稿は、〝ダムのない川〟山形県最上小国川の小国川ダム建設計画へ反対し続けてきた最上小国川漁協の組合長が、志半ばで亡くなられた直後に書かれました。その後、新組合長を選出した漁協はダム容認へ転向し、多くの疑問の声を無視したまま、現在も小国川ダムの建設は進められています。

耳ざわりのいい言葉を行政や企業が大きな声で語るとき、往々にしてその裏側には表面とは異なる意図や狙いが隠されているものです。

水口憲哉氏の単行本『原発に侵される海―温廃水と漁業、そして海の生きものたち』、『桜鱒の棲む川 ─サクラマスよ、故郷の川をのぼれ!』などと併せてお読みいただけると、日本の原発、ダムの利権をめぐる背景がさらに見えてきます。

釣り人は言うまでもなく、気持ちのいい釣りをしたいだけの生きものです。気持ちのいい釣りを自分が楽しみ、次の世代へ引き継いでいくことは釣り人にとって何よりのよろこびです。ときに竿を振る手を休め、身の周りをみまわして、ちょっと考えるゆとりをもつことも大切ではないでしょうか。

(編集部)

フライの雑誌-第102号 特別号 特集 シマザキ・ワールド14 Shimazaki Flies 2014 Selection タイイング・写真・文・イラスト 島崎憲司郎 tying , photo , text & illust by Kenshiro Shimazaki
フライの雑誌-第102号 特別号
特集 シマザキ・ワールド14
Shimazaki Flies 2014 Selection
釣り場時評75 ダムも原発も公害の発生源である ─行政と企業の掲げる〝公益〟の嘘」(水口憲哉)

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釣り場時評75

ダムも原発も公害の発生源である
─行政と企業の掲げる〝公益〟の嘘
(水口憲哉)

アユとサクラマスなど川の魚が自然のままに健やかに暮らしている山形県最上小国川で、漁業協同組合の組合長としてその川を維持し守り続けてこられた沼沢勝善さんが亡くなられた。

自死して無言の強い抗議と抵抗を表明する人が存在することの重さを軽視しダム建設を強行しようとする山形県という行政組織にあらためて怒りをぶつける。

穴アキダムで工事前より川はよくなると県は言うが、川の真ん中にコンクリの大きな構造物をつくる以上、その工事現場は一度水ぬきをするために川まわし(バイパスづくり)をしなければならない。そして、ダムが完成したらその強度試験のために穴をふさいで湛水(水をたたえる)し、ダム湖化してみなければならない。

ダム建設工事で小国川は二度殺される。そして再び水が流され、魚が放流されても小国川は二度と生き返らない。

「公害」という言葉は常に行政によって
公利・公益の反対語として用いられて来た

公益のためにダムをつくると言いながら、山形県は公然と環境破壊を行おうとしている。このような環境破壊を「公害」と言った時代があった。それは明治時代から一九八〇年代の初めまでの一〇〇年間である。一八八〇年大阪府の布達に「公害」の語が登場して以来、「公害」という言葉は常に行政によって公利・公益の反対語として用いられて来た。

丸山徳次の言うように〝日本では「公益」の理解をめぐって資本および行政と市民との間に絶えず綱引きの関係があった。足尾鉱毒事件は、銅の輸出を国是とする国家行政と資本との癒合が、民衆を黙殺した出来事だった。

近代化の進展の中で、公衆を保護することを公益とするよりも、工業と経済発展を推進することを公益とする傾向が強まっていったのである。〟

足尾鉱毒事件は日本の公害の原点とよく言われるが、工業と経済発展の推進が公益であるとした結果起こった大気汚染と水質汚染の重大被災事件と言える。

田中正造の没後一〇〇年、公害を起こすことを言いくるめて公益のためという開きなおりを山形県は今もやっている。

有害汚染物質排出による環境破壊と人々の
健康や生命の被害は甚大なものであった

行政のこの横暴さというか無神経さについてもう少し見てみたい。

東京都では、都政発足直後の一九四三年(昭和十八年)七月に工場公害及災害取締規則(警視庁令第十四号)が制定されている。これはそれまでの工場取締規則の中で、「公共の利益を害する」または「公益を害する」おそれありと認められた工場について公害という語で取締ることにしたのである。戦争真っ最中につくられた規則で、今の考えでゆくと公害どころの騒ぎではない筈である。戦時体制下の別の目的があったのかもしれない。

お役人がなぜ昔から公害という言葉を使うかというと、英国の法律用語であるパブリック・ニューサンス(public nuisance:公共の生活妨害)の訳語のつもりでこれはよいと使ったのが初めてかもしれない。

パブリック・ニューサンスというのは不特定多数の発生源から出される有害物質が不特定多数の被害者に影響することを言うものであり、ロンドン市における煙による災害や大気汚染に対して言われたものと考えられる。

東京都で光化学スモッグと言われたものや、自動車の排気ガス災害や四日市ぜんそくが大気汚染の問題としてはわかりやすい。海洋汚染としては船底塗料中のTBTによって海の生きものやヒトが悪影響を受けるのがこれに相当する。

それゆえ、古河鉱業(現在の古河機械金属)が発生源である足尾鉱毒事件や、新日本窒素(現在のちっそ)が発生源である水俣病事件を公害と呼ぶのはおかしいと考える人も多い。

公害の看板を環境に掛け変えたら
中身が生態系、生物多様性になってしまった

しかし、一九六〇年代から七〇年代にかけて様々な発生源からの有害汚染物質排出による環境破壊とその結果としてひき起こされた人々の健康や生命の被害は甚大なもので異常な〝公害ブーム〟が出現した。

その結果東京都は公害部を設置(一九六〇年)し、公害研究所を設立(一九六八年)する。そして、国も公害対策基本法を施行(一九六七年)し、環境庁を発足(一九七一年)させる。しかし、東京都は一九八〇年公害局を環境保全局の名称に変更し、一九八五年公害研究所を環境科学研究所に改称する。

国も同様に一九七四年発足の公害研究所を一九九〇年環境研究所に改称し、公害白書の名称を環境白書に改めたり、ついには公害対策基本法を環境基本法に変えてしまう。

このようなブームというか祭りの後の店仕舞のように、公害の看板を外して環境に掛け変えたと思ったら更にその中身も生態系、生物多様性と、出発点の環境破壊からはほど遠いものになってしまった。

思えば遠くへ来たもんだということである。

OMOTENASHIと同じように
KOGAIで通じると考えた研究者がいた

私は昔から公害や環境という言葉を使わない。というのは、一般的な総称としての公害や環境を問題にしているのではなく、具体的に島根原発の増設や上関原発の建設、そして川辺川ダムや小国川ダムの建設に反対して漁民と共に闘って来たからである。

東京都の公害研究所の公害は Environmental Pollution(環境汚染)であり、一般的に公害を英語で言うときはこのように言うことが多い。このことを考える時に一番分かりやすい例が一九七〇年三月に東京で開かれたユネスコ国際社会科学評議会主催の公害問題国際シンポジウムである。

この会議のまとめ役となった一橋大学の都留重人は、英米の出席者が Environmental Pollutionをこの会議のテーマとして考えているのに対して、日本側の出席者が公害をKOGAIと記して用いることもあったので、両方を考慮して Environmental Disruption(環境破綻)という国際語を提案し採択された。ただし環境破綻は日本語として難しいので環境破壊が用いられるようになったという。

OMOTENASHIと同じようにKOGAIで通じると考えた研究者がいたということはそのバカさかげんにあきれる。ともあれ都留さんは非常にまともな判断をしたと思う。ただし日本では公害が会議の名前として当然のように用いられた。

不採用になった開高さんの原稿

この時期公害という得体の知れない意味不明の言葉に大都会の住民が侵されている情況を開高健がよく言い表している。

「無限界、無差別ということでは工業汚染はさながら神のごとく公平であるかのように見える。東京や大阪のような大都市の空気がガスと粉塵でさながら毒物のポタージュのように重くなっているのだとわかっても、空気は還流し、たえまなくうごくものであるから、遅かれ速かれ、地方にもそれは及んでいくのである。同様に海もまた巨大でダイナミックで正確で休むことを知らない移動なのであるから、どこかの地方の海が汚れれば、やがてそれは魚か、プランクトンか、海水そのものかによって、潮によってはこばれてくる。畑に投入された白い粉は地下水によって川へおしだされ、海へ流れて、ふたたび台所にもどってくる。米か牛乳、肉、果物、野菜、水によって、直接に台所へ毒が届けられる。貧しい漁民の台所にも、金持の企業家の台所にも、おなじようにとどけられるのである。
─中略─
ミナマタとか、ヨッカイチとか、化学工場や石油精製基地などのある地方都市では悲惨な汚染の被害者が続出し、強烈な抗議運動が起こって、問題は白熱化した。
─中略─
ちょっと考えるゆとりのある人は一瞬のうちに最近百年間の日本の近代化→工業化という宿命のことを考え、何を失い、何を得たかをかぞえはじめるが、あまりにも厖大、かつ複雑であり、荒涼としているのにデリケートである記憶もおびただしく殺到してきて、ひりひりしながらも何となく、とどのつまり日本はこうなるしかなかったのであろうと感じて椅子からたちあがり、何もしない。どれほどおびただしい死体を眺めて徹底的にペシミストになっていながらもけっして心のどこかでは、おれには弾丸はあたらないのだと、おぼろげながらもしぶとく思いつめている、あの最前線の兵隊に似た心理がうごくのである。」

これは、日本の工業化が国民にどう感じられていることであるか、この問題について書かないかというN.Y.タイムズ・マガジンからの誘いで一九七三年に書いた「一億人の自殺者」という随想のほんの一部である。サイゴンから帰国して、四苦八苦のあげく仕上げた原稿をニューヨークに送ったところ、問題そのものがおなじみであり過ぎるということで不採用になったという。

この文章は翌年六月の「野生時代」に掲載されたので読むことができる。わたしは開高さんらしくて好きである。流行りの公害という言葉は一言も出てこない。全くの私見だがそのあたりに不採用の理由があるのかもしれない。

開高さんも書いているように、ドナルド・キーン氏の推薦で書くことになったというが、キーン氏には日本の公害騒ぎが言葉の使用も含めて理解し難く、おかしかったのではないだろうか。

責任を問われる企業、工場そして
それを守ろうとする国

開高健がこの文章を書いた頃、筆者は島根原発の温廃水が漁業にどのように影響するかの調査に松江に通い始めていた。そこで世話になった島根大学の学生達は原発から日常的に環境中に放出される放射能の生きものへの影響を知るために、ムラサキツユクサに見られる突然変異の調査をしていた。そのグループ名が島根大学「公」害研究会であった。この公にカッコをつけるこだわりはよくわかる。とは言え、足尾鉱毒事件や水俣病事件を公害の原点ととらえての公害という語の使用そのものは止むを得ないと考える。

しかし、水俣病の患者である水俣市にすむ渡辺栄蔵さんは一九六九年に〝公害、公害という必要もなかですよ。加害者でしょ、被害者でしょ、妻殺しとるでしょ、人を殺すのは刀ばかり使うとじゃなかですよ。殺しとるかどうかでしょ。〟と告発している。

水俣病事件は典型的な公害病、公害事件とされたが、実は典型的な企業犯罪であり工業汚染である。それゆえ、責任を問われる企業、工場そしてそれを守ろうとする国は公害という言葉を使わないようにして来た。

福島原発事故は我が国始まって以来
最大の公害、環境汚染である

これまで、公益から始まって、公害ということについてその問題点を考えて来たが、本欄で二回にわたって検討したそれらのことにずばっと答を出すような判決が五月二十一日に福井地裁(樋口英明裁判長)で言い渡された。

この福井県おおい町にある大飯原発三、四号機の再稼動差し止めを求めた訴訟において、「被告関西電力は、大飯原発から二五〇キロ県内に居住する原告一六六人に対する関係で、三、四号機を運転してはならない。」と命じたものである。

そして、公害という語を用いて次のように言い切っている。

「被告は、原子力発電所の稼動がCO2、排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」

真当な司法の存在が明らかになることにより公害という言葉も本来の使われ方をする。これが真当なお役所のすべきことである。また、1、はじめににおいて、

「生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。」

と判決は述べている。

公益より人権、人間としての自由

これは前号の本欄で主張した、公益より人権、人間としての自由を法的に説明してくれているもので、筆者は知らないうちに憲法第十一条(基本的人権)、十二条(自由・権利の保持)、十三条(個人の尊重・幸福追求権)を自分のものとして学び始めていたようである。

また、安倍晋三首相の発言をも念頭においたのか、

「被告は、本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」

足尾鉱毒事件や水俣病事件が公害の原点であると言われるが故に、国や企業は公害という言葉をきらう。その意味では、福井地裁判決はそのきらわれている事件の本質的な問題に納得同意するが故に、すなわち同じ文脈で公害という言葉を使っている。

その文脈とは、足尾鉱毒事件、水俣病事件そして東京電力福島第一原発事故による放射能汚染もみな同じように企業による犯罪事件だということである。

にもかかわらず、国や企業は常に、公益、公共、国富、国益のためにやったことが結果として事故になり事件になったと主張する。しかし、福井地裁判決は、公益のための原発というが、原発の存在とその事故の影響は公害そのものだといっている。

これは丸山徳次の足尾鉱毒事件に対する見切り方に通ずるものがある。そしてまた、公益のためといってダムをつくろうとする山形県をも間接的に批判している。

有害物質の発生源を断つことしかない

公益から出発して公害にこだわって考えて来たが、公害という言葉をあえて使う必要もない。

重要なことは、鉱毒、水銀、そして放射能などの生きものの健康や生命をおびやかす有害物質を海や山や川、すなわち環境中に出さないようにすることである。

しかし、国や企業に有害物質を環境中に出さないで下さいとお願いしても無理である。

そのような有害物質の発生源を断つことしかない。

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「釣り場時評75 ダムも原発も公害の発生源である ─行政と企業の掲げる〝公益〟の嘘」(水口憲哉)|第102号
桜鱒の棲む川 水口憲哉(2010)
〈…ダム建設に河川の漁協が反対する構図は、ありそうで実はどこにでもあることではない。というのは日本の川でダムや河口堰の建設されていない川を探すのが大変という実態があるからである。筆者は最上川の支流である小国川を訪ねるにあたり、小国川のアユやサケ、マスについて調べていった。その際、最上川本流と小国川にまだダムがないことのもつ意味、その素晴らしさにあらためて気付かされた。…〉 『桜鱒の棲む川』(水口憲哉)
『淡水魚の放射能 川と湖の魚たちにいま何が起きているのか』(水口憲哉=著/フライの雑誌社刊)
『淡水魚の放射能 川と湖の魚たちにいま何が起きているのか』(水口憲哉)
フライの雑誌 113(2017-18冬春号): ワイド特集◎釣り人エッセイ〈次の一手〉|各界で活躍中の個性派釣り人が熱く語る〝次の一手〟とは。川野信之/黒石真宏/碓井昭司/本村雅宏/渋谷直人/平野貴士/坂田潤一/遠藤早都治/加藤るみ/田中祐介/山本智/中原一歩/山﨑晃司
○天国の羽舟さんに|島崎憲司郎
○〈SHIMAZAKI FLIES〉シマザキフライズ・プロジェクトの現在
○連載陣も絶好調
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『フライの雑誌』第113号
本体1,700円+税〈2017年11月30日発行〉
ISBN 978-4-939003-72-1 AMAZON