【特別公開】
フライの雑誌-第109号(2016年8月5日発行)から、〈発言!〉釣りと「似て非なるもの」 最近の「外来生物行政」にもの申す を公開します。
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〈発言!〉
釣りと「似て非なるもの」
最近の「外来生物行政」にもの申す
山田二郎 公務員(水産職)
外来生物の防除事業は予算縮減せよとの外部評価を受けたが、逆に増額された。外来生物に関する制度は、運用に大きな問題を抱えているようにみえる。
見てはいけないものを見た
まず、タイトルとは反対の、釣りと「似ているもの」の話からはじめよう。すぐに思い浮かぶのは「ギャンブル」で、釣り暦の長い方は他誌も含めてこの類の話を読んだことがあるのではないだろうか。
釣りとは様々な類似点があると指摘されてきたが、最近、昔の業界誌(昭和後期のもの)を調べていたら、「イサキの成魚は魚屋で買えば1尾当たり1000円ほど…。乗合船料金の元手を回収、さらに形の上だけにせよ利益を上げることを考える釣り人がいても不思議ではない。数あるレジャーの中で、行うに際し損得勘定が絡むのは、ギャンブルと船釣りくらい…。」という記事を見つけて、苦笑させられた。もっともこの記事の中でも、フライフィッシングは釣果による損得勘定が意識されない釣りとして紹介されているのだが。
金銭や損得勘定の話といえば、「投資」も釣りと似た性質がある。投資そのものが多くの人に「ギャンブルのようなもの」と認識されているので、釣りと似ているのも当然なのかもしれない(マイナス金利の世の中でもあり、最近、必要に迫られて少し情報を集めてみたところ、ギャンブルなのは「投機」であって「投資」とは違うとされていた…)。
釣りとの関係で投資をみると、多くの不確定要素が絡んだ結果として生じた事象を、それらしく事後解説することを商売にしている専門家の多いのが共通点だと感じる。株価の将来予測や儲かる投資の方法(釣りなら「このポイントではこの時期、このエサでよく釣れるでしょう!」といったことか)といった情報もたくさん出回っており、経験則、データ重視、直観など様々な手法があるようだが、どれも的中率・成功率があまりよくないと思われる点も似ている。
投資の世界では高学歴の専門家たちが、小奇麗なスーツ姿でこの手の「当たるも八卦、当たらぬも八卦(のように感じる)」といった自説を大真面目に話しているようだが、釣りの世界でも「フィッシング・ストラテジスト」とか称してネクタイ着用、スタジオで釣況分析なんてスタイルが、意外とウケるかもしれない?? ただ一方で、誰を・何を信じるかは別として、投資をしなければ絶対にリターンが得られないのは、釣りに行かなければ魚が釣れないのと同じ現象でもある。
さて、本題の釣りと「似て非なるもの」だが、今を遡ること十数年、琵琶湖のほとりである行為に接して衝撃を受けた。それは当時、滋賀県が実施していた外来魚(バス、ギル)の買取り(現金ではなく「ノーリリースありがとう券」という金券との交換だったが)に持ち込むため、湖岸で魚を獲る人たちの姿を見たときだった。
たしか平日の午後、水面に向けて釣り竿を出すのは中高年が多かったと記憶している。結構な人数が湖岸に並んでいるのだが会話はなく、誰もが次々に釣れてくるブルーギルを同じ柄のビニール袋(当時、外来魚回収用として配布されていた)に黙々と放り込んでいた。
この光景を見た当初、何だかわからないが非常に強い違和感が頭に浮かんだ。しばらくしてそれが釣りと「似て非なるもの」を見たことに由来するのだと気づき、違和感が衝撃に変わった。冒頭紹介した船釣りの損得勘定はあくまで形の上だけ、気分の問題であって、漁業者ではない人が「外来魚を換金目的のために獲る」ことは、あの時の琵琶湖で初めて見た。
外見上、やっていることは間違いなく「釣り」なのだが、趣味性・娯楽性はまったく感じられないし、では「漁業」なのかといえば全然そんなことはなく、ということでしばらく頭の整理がつかず、また、「見てはいけないもの(見たくないもの?)を見てしまった」といった後味の悪い感情が浮かんだことも忘れられない。
当時、外来魚500グラムにつき額面50円の「ノーリリースありがとう券」がもらえたとのことだ。ちなみに、平成15年からの3年間で「ノーリリースありがとう券」の引換件数は、1万2千件余に上ったことが報告されている。
成果ははっきりしない、分かりづらい
さて、その外来魚駆除は今、どうなっているのか。さすがに一般の人から外来魚を買い取る対策は終了している。また、外来生物法が制定されて、今は駆除ではなく「防除」と呼ばれるようになった。
外来魚の防除は環境省の施策として展開されており、現場での取り組みに対して国から補助金が支出されている。現在、中央省庁のホームページには「行政事業レビュー」というコンテンツがあって、毎年度すべての補助金について、同じフォーマットで実施状況や自己点検結果が記載されている。自己評価だからあまり刺激的な内容はないが、フォーマットの末尾では国からの補助金がどんな団体を経由して、末端にいくら配分されているか一目でわかるようになっている。
外来生物の防除事業もこのレビューで毎年取り上げられているので、環境省のホームページで公表されている平成22年から26年までの個票を眺めてみたが、「成果目標及び成果実績」については、「特定外来生物の根絶・低密度化、防除の体制や手法の確立を目標として、各地で防除を実施しているものであり、これらを全体的に評価する指標が存在しないため、全体についての定量的な成果目標・成果実績を示すことはできない。」と記載されている。
また、同事業の対象は、「希少種の生息地や国立公園などの我が国の生物多様性保全上特に重要な地域で国として保護を行う必要がある地域」という範囲に限定されており、マングース等他の防除対象生物と合わせた全体の話として「防除により生息密度が低減しても、いったん捕獲圧を下げてしまえば個体数が回復してしまうことから、事業の継続的かつ効果的な実施が必要である。」といった点検結果になっている。
総じて、はっきりしないというか分かりにくい印象を受ける。
なお、行政事業レビューには一部の事業を対象として、外部有識者による評価を行う「公開プロセス」という取り組みがある。平成24年度の公開プロセスでは、防除事業が取り上げられ、「どこまで防除すれば目標・事業目的を達成できるか不明瞭。国費を投入するわけだから国民への説明責任を果たせるように防除、方法を工夫するなど予算縮減の努力をすべき。」との理由から、「抜本的改善」という厳しい評価を受けた。
しかし、この評価には、日本哺乳類学会等に所属する研究者が「外来生物対応の基本的考え方や事業の成果についての誤解が含まれている」として、新聞への意見投稿、シンポジウム(学会大会での自由集会)の開催、学会誌での意見論文発表、評価の再考と外来生物対策の一層の推進を求める環境大臣への要望書の提出といった活動を展開した。
これらの影響からか、翌年度の防除事業の予算は、公開プロセスでの評価結果とは反対の増額(対前年度比129%)という結果になっている。民主党政権末期の出来事とはいうものの、後述する学術性といった要素との関係では興味深い現象である。
取り締まり実績は上がっていない
防除事業の効果について、現場レベルでは地元の関係者が手間暇をかけて地道に防除を行うことによって、一定の成果を上げたと評価することも可能であろう。平成17年に定められた「オオクチバス等に係る防除の指針」でも、具体的な水域ごとの防除については、完全排除又は低密度管理による被害の低減化などの適切な目標を決定して実施することを求めている。
他方、制度のあり方として考えた場合には、公開プロセスの評価にも記されているような、全国レベルでの行政施策としての成果や国民の税金を投入した取組みとしての費用対効果という観点も問われるべきだ。防除事業における費用対効果とは何なのかについては、意見の分かれるところだが、そのあたりのことは行政事業レビューにはっきりと記載されておらず、もどかしく感じる。
逆の見方をすれば、「外来魚の防除が大好き」という人たち(個人的にはあまりお友達になりたくないが)も、行政事業レビューを研究して、費用対効果などの視点からもっと環境省に注文を付けて改善を迫ればよいのではないかという気がする。
また、少し異なった視点から眺めてみると、そもそも外来生物に関する制度は運用に大きな問題を抱えているようにみえる。
バス・ギルに関していえば、「釣り人の密放流は外来生物法の制定後も続いており、それが防除の推進を阻害している。」といった状況分析も散見されるが、そんな不埒な人間を捕まえて罰することができるように、外来生物法による制度を作ったのではないのか。
総務省が公表している資料によれば、外来生物法違反による検挙件数は平成18年の6件から平成24年には18件に増加しているとのことだが、これは特定外来生物を無許可で飼育・譲渡した等、同法に規定された規制措置全体、また、特定外来生物全体(本年3月末現在で植物も含め110種)に関しての件数であり、この中にバスやギルの生体を所持しているとして検挙されたケースが何件あるのかは定かではない。環境省が公表している資料においても、平成22年度までの同法違反の全体件数(平成20年度16件、21年度14件、22年度10件等)が示されているだけで、細かいことは調べがつかない。
特定外来生物の生体を許可なく保持することは禁止されており、違反者は現行犯で逮捕されることもあり得る。個人に課される罰金は最高300万円と、社会的にかなり重い規制措置だが取り締まりの実績は上がっていないようだ。
世の中に規制は数多あるが、犯罪捜査に関わる警察はもちろんだが、例えば沿岸海域での漁業許可だって管理当局である県の水産部局は、違反者の取り締まりに相応の手間とコストをかけている。制度(特に罰則を伴う規制措置)を創設し、運用するとは遵守(規制を守らせること)の徹底も含めたものではないのか。それとも外来生物に関しては、規制をかければ実態がそれに追随して自然に違反行為が減るとでも考えているのだろうか(だからといってバス・ギルを放してよいということではないので、念のため)。
環境省(農林水産省も共同所管)には、この制度の運用において、「決まりを守ってもらう、守らせる」という覚悟や行動を見せてもらいたいものだ。
釣り人は相手にされていない
このところ産業管理外来種や国内由来外来種といった新しいカテゴリーが創設され、また、本年中には特定外来生物の対象種の拡大が予定されており、魚類もその中に相当数が含まれている。
外来生物対策の制度や対象種は拡大される方向に向かっているが、釣りを通じて川や海に接している現場感覚からは違和感が残る。
この国の水辺環境や魚類を含む生態系が荒廃している事実はあるとしても、普通の人(釣り人も)が見たこともないような魚まで対象種に指定して、罰則を伴った制度で全国的に規制すること(これは生物多様性とセットで導入された「予防原則」の考え方に基づく対応の典型)は、社会的に妥当なものといえるのか、また、遵守は担保できるのだろうか。役所仕事の常で、対象種が増えれば予算も増えることはほぼ確実なのだろうが…。
残念なことに、こういった状況や施策の方向性の検討過程において、釣り人や釣り業界の意見は、ほとんど取り上げられず相手にされていない。なにしろ世間一般からみれば、怪しげな理論を売り物にしている専門家が跋扈しているような世界なのだから信用がなくても仕方ないともいえるが…。
外来生物への対応については、前出の哺乳類学会のほかにも日本生態学会や日本魚類学会などが非常に熱心な関与を続けており、防除を進める立場の側には、常にこうした学者・研究者の組織が味方勢力として存在する。
一方で、常々感じていることだが、外来生物の防除という行動は大人が頭の中で考え、ある種の割り切りに基づいて実行している部分があまりにも多い。このため実際の現場で行われる、外来種と在来種をより分けて命の選別をするという行為を、筆者は子供にうまく説明することができない。
「それを理解させるのが教育、学問である」と言われそうだが、浅学を自認する身としてはもっと素直な価値観、自然観をベースにした対応が考えられないものだろうかと思っている。
釣り人の意見を社会へ向けて発信できるような理論構築、理論武装を
行う場がほしい。賛同いただける方はいないだろうか?
国民参加での議論が必要だ
では、こうした釣り人の現場感覚のようなことを手がかりとして、真っ当な問題意識を持って研究・検証に取り組み、議論に参加してくれる学者・研究者がいないものか。
防除の取り組みをはじめとする外来魚への対応に、真っ向から反対するようなことを考えているわけではないが、日々水辺に立つ釣り人が感じる制度への疑問、予防原則の息苦しさといった感覚を発展させて、制度の適切な運用や深化に寄与していくようなことができないものだろうか。
そんなことを考えていたら、最近、興味深い論文(戸部真澄「生物多様性保全と法」大阪経大論集、第66巻1号、2015年)に出会った。
ここでは、池田清彦「生物多様性を考える」(中央公論社、2012年)を引用する形で、生物多様性の〈保全論は人間中心的な色彩を帯びざるを得ず、その結果、保全論における「政治性」は生物多様性の「本質』ともなる。〉と述べている。
そして、〈そうであるとすれば、保全論において重要なのは、保全論が本質的に備える「政治性」を「隠蔽しない」ということ〉であり、〈むしろ、「何を保護すべきか」は「政治的に決まる」ということを正面から認めた上で、その議論を広く国民一般に開いていくことこそが必要〉、〈生物多様性の保全は、究極的には国民・住民の参加等を含む政治過程を通じて決定されていくものであり、その過程の公正さが保全論の恣意性を排除し、その決定に正当性を与えていく〉と論じている。
筆者はこの論文を書いた学者さんとは面識がないが、論文の中では事例として「ブラックバス」、「ルアー・フィッシング」が繰り返し取り上げられていることを考えると、彼は釣りや釣り場の実態にも通じており、そうした視点から見る「魚類の生物多様性保全」に某かの思いを持っているのではないかと勝手に推察している。
論文中で指摘されている、生物多様性保全に政治性があるという点に異論はない(だから現場での行為を子供にうまく説明できないのだろう)が、そこに依拠してしまうと「素直な価値観をベースにした対応」なんて甘っちょろい考えは、認めてもらえない気がしてくる。
一方で、釣り人の意見も生物多様性の保全に関する「正当性」を確保するために必要な要素のひとつであり、また、税金を使って実施する事業としての費用対効果といった切り口で議論することも、排除されるものではないと心強くも感じる。
筆者は論文中に記されている「国民に開かれた議論」や「住民参加による政治過程」の中身は、環境省の審議会で生態学者の意見を参考に規制対象種を決定し、パブリックコメントを行って広く意見を聞きました、というような現状の対応とは次元の異なるものだと考えている。
釣り人の意見を社会へ発信しよう
魚類は漁業をはじめとする産業利用に加え、数多くの魚種が食料となって流通していること、レジャーとしての利用(釣り)も存在することなど、人間生活との接点の多さという点で、昆虫や哺乳動物とはかなり異なった実態を持っている。セイヨウオオマルハナバチやアライグマよりもオオクチバス(おそらくオオタナゴやニジマスなども)の方が、上記の論文でいう「政治性」が高いといえるだろう。
そうであればこそ、もっと実態に根ざした、ボトムアップで幅広い観点からの議論が必要であり、そこに釣り人として一定の関与を持ちたいものだと思う。
ただ、翻って考えた時、この国の釣りをめぐる議論には、「学術性」や「社会的側面」といった要素が圧倒的に不足している。例えば、釣りに関係する学術論文は体系化されておらず散発的であって、所属学会・掲載誌はバラバラな状態であり、研究成果や思索をもとに議論を交え、理論を磨く場もない。釣り人も参加した議論の成果をまとめて、社会的なインパクトを持つよう外部に発信することは困難な状況といってよい。
そんなことなので筆者も学会報告ではなく、一風変わった編集方針の釣り雑誌(失礼!)にこのヨタ話を投稿している次第だ。これでは生物多様性を全面に出して対応を進めようとする国内諸学会などに、太刀打ちできる訳がない。
釣り人の思想信条は多様であり、ひとつにまとまるとは思えないが、できる限り幅広い勢力と議論してスジの通った論理を整え、それを現場での具体的な動きに繋げていくといった取り組みが、現代社会における釣りという側面では不可欠になってくる。
こうした状況に対応するためには、研究者やメディア関係者など釣り人以外の構成員にも参加してもらえる、実力・実効を伴った機能を持つ組織の整備が必要となるだろう。生物多様性の保全に関しては、生態学や保全生物学、魚類学などの研究者にも多様な意見が存在する。釣り人を含む幅広い構成の組織は、そうした意見の一端を開陳してもらうための受け皿としても存在価値があるはずだ。
「どこが釣れる」とか「どうやれば釣れる」と探究することも釣りの楽しみのひとつだとすれば、「生物多様性と釣り」や「社会のあり方と釣り」などと議論することは、ある意味で釣りと「似て非なるもの」かもしれないが、上記の社会実験ともいえるアイデアの具体化に、賛同いただける方はいないだろうか?
何人か集まれば、ヨタ話から少し発展する芽が出ると思うのだが。
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本稿を掲載後、山田二郎さんからの〈提言〉へ、何人かの読者さんからの意見表明が編集部へ届きました。引き続き、ご興味ある方はフライの雑誌編集部までご連絡ください。
(2018年7月31日 フライの雑誌 編集部 堀内)