こじれいさんの引退で思い出した話。
〈フライの雑誌〉第37号(1997年3月発行)の特集は、〈TV釣り番組は、面白いか TV釣り番組の現実と理想を探る〉というものだ。発案したのはわたしだ。
当時気が向くと、自分で考えた〈フライの雑誌〉の編集企画を、適当にずらずらとメモしていた。手が空いたとき、仙川にあった編集部へファクスで送りつけていた。一回につき、だいたい30〜40本くらいの編集企画を書いて送った。
〈フライの雑誌〉でこんなことすれば面白いんじゃないか、あるいは、俺こういうの読みたいくらいの、ゆるいノリだった。月に2回送るときもあれば、ひと月空くときもあった。べつに頼まれていたわけではなかったし。楽しみでやっていた。
他方、編集長の中沢さんにしてみれば、自分の雑誌の編集企画が、いち読者に過ぎない若造から、とつぜん、勝手に大量に送られてくるわけだ。中沢さんは超絶忙しかったのに、その気持ちはいかがなものだったろう。けっこう喜んでいたんじゃないか。
中沢さんの気に入った企画があれば、「いいね、これやろう。」と言ってくれた。こっちとしては、してやったりである。マッチ・ザ・ハッチである。ストマックいらない。
勝手に送りつける編集企画にも、我ながらよくできているものと、そうでもないものがあった。よくできた企画なのに、中沢さんが食いついてくれないときは、表現を少し変えて何度もメモに忍ばせた。それでもだめな企画はだめだった。魚の気持ちはわからない。
第37号の特集企画は、かなりいまいちなほうだった。それなのに中沢さんは食いついた。ファクスを送ったら即電話がかかってきて、編集部へ呼び出された。ほとんど出会い頭の向こうアワセ。竿がひったくられてフッキングした感じ。
「釣り番組いいじゃん。やろうやろう。」。中沢さんは上機嫌のようだった。こんな地味な企画でいいんすか。ふーん、わけわからないっすね。「ホリウチくん、やって。」。まあ、そういう人ではあった。いま思うと『水生昆虫アルバム』に中沢氏が人生賭けたいちばん大変な時期だった。
中沢さんの指示のもとに取材先へアポをとった。メインの3本のインタビューはわたしがやった。わたしは台割りというものの存在を知らなかったし、文字数とか、締め切りも頭におかないで、ただ書きたいだけ書いた。制作のほうはものすごく大変だったはずだ。
そうして地味な特集の第37号ができあがった。あろうことか、表紙の写真も地味だった。あちゃー、と思った。
ところが第37号はわりとすぐ売り切れになったのである。
ふーん、今もやっぱりわけわからない。