釣りの業界には文章が切ない有名人が少なくない。
有名人の日本語になってない悲惨な原稿を受け取った時、ぜんぶリライト(書き直し)すればいいやと編集者が考えるのはわかるけど、文章が書けないその人の名前で公の誌面に発表するのは、やっぱり良くないと思う。ある意味で読者と歴史への詐欺ではないでしょうか。
リライトがわるいとは言わない。
10年以上前に取材でお会いした大尊敬する偉大な編集者から
「あなた、編集者はね。リライトよ。」
と悟りきった表情で教えていただいたことがある。そのときはなるほどと思ったが、限度と節度というものがありますよね、という話でもあると思う。
超人的な能力の編集者なら別だけど、ふつうの編集者がリライトしまくると、結局一冊似たようなテイストの文章になっちゃうから、つまらない本になりがちだ。
あのお方だって、いまわたしがこう申告すれば、
「あなた、そうかもね。ふふふ。」
くらい言ってくださると思う。
自分の場合は、相手が有名無名を問わず(そもそもうちにはそんなの関係ないし)、面白い方と知り合って原稿を依頼して、出てきた文章がいまいちな日本語だったとしたら、初回は先様と慎重に相談しながら、できうるかぎりお手伝いする。
文章に気持ちを込められる人なら、二回目は断然よくなる。そういう方とは、長く、お互い、楽しく、いい仕事ができる。どんどんよくなって、すぐに編集者なんかいらなくなる。
必要なのは表面的な文章の技術ではない。書きたい心と、対象への情熱、まじめな態度があれば大丈夫だ。とくに釣り雑誌に載せる読み物の場合は。魅力的な釣り人はたいてい素晴らしいライターである。
対して、まれに、文章にはそもそも興味がない人々がいる。「まったく書けない人」と呼んでいる。発症率は釣りの腕や経験、人格とは無関係だ。もちろんうちの本や雑誌なんか、読んだことはない。じつはそういう相手に原稿依頼した時点で、編集者の負けである。見破れなかったんだから。
いままでの経験上、「まったく書けない人」は初回の原稿を送ってきた時点で、「ぜんぶ任せます」か、「俺の玉稿に手をいれるな」の二通りだ。
「俺の玉稿に」からは逃げの一手だ。速攻で謝って逃げる。「ぜんぶ任せます」の人は、初回はこっちの責任上、相手から口頭で情報を補填しつつ、載せて恥ずかしくない文章になるまでリライトする。でも二回目はたぶんない。だって相手にやる気がないんだから、いくらこっちががんばっても、お互いに幸せな未来はやってこない。
いずれ、どんなケースでも、時間とともに厳正なジャッジをしてくださるのは読者さんだ。それだけは明らかです。
以上、かなりえらそうな、三流編集者のリライト論でした。
誰かリライトしてください。
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ところで、我らが安倍総理大臣の演説における日本語力もかなりのものである。
「まさに」「いわば」「における」「なかにおいて」「もとより」「文字通り」「これまでにない」「結集した」「大胆な」「しっかりと」「これはもう」「歯を食いしばり」「スピード感をもって」「にっきょーそ!」
かつて新左翼と呼ばれた、ゲバ棒かついだお揃いヘルメット集団のアジ演説そっくり。語彙貧弱の極み。安倍さんは救国の志士と思われたがっているようだが、じつは昔ながらの学生運動へひそかに憧れているズブズブの隠れ極左なんじゃないかしら。
こんな空虚な言葉の羅列をリライトしたら、なあんにも残らないですよ。そうですよね。
「あなた、そうよ。ふふふ。」
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最近読んで、おもしれええ、と叫んだ記事はこちら。
「人間は野生の社会には戻れないです。裸の猿として脆弱に退化していて、進化なんかしていない。エボラ出血熱や鳥インフルエンザの問題もそうで、これからウイルスと人間の戦いが激化するだろうと言われています。本来はウイルスによる激烈な淘汰と免疫を持つ数パーセントの新種の誕生こそが、昔から繰り返されてきた進化のプロセスだった。そのなかで人間だけが、その進化の掟を破るわけですよ。」
もう、人間と自然は共生できない 環境学者・五箇公一インタビュー
2014年の記事です。