【公開記事】水辺のアルバム 9 〈カジキを突いて暮らす人〉 水口憲哉(フライの雑誌-第112号)

水辺のアルバム 9

カジキを突いて暮らす人

(東京海洋大学名誉教授・資源維持研究所主宰)

フライの雑誌-第112号(2017年7月発行)掲載

漁業権とも、知事や大臣の許可とも関係のない自由で気ままな漁業なので全く規制を受けず、その代わりにどこから面倒も見てもらえず、獲れなくても自己責任という大変な漁業といえる

ヤスや突き刺さる部分が手元から離れるモリで突いたり刺して魚を獲ることは、釣りばりで釣ったり、網で獲るより簡単であるばかりではなく、原始的でヒトの本能を刺激する魚の獲り方である。ただし、魚が大きくなければそれは難しい。けれども大きな魚に出合うのはそう簡単ではない。

東京海洋大学には東京水産大学と言っていた数十年前から潜水部や釣り同好会はあった。しかし、ここ十年ほどはそれに加えて、素もぐりで魚を突く同好会やサークルが二つほど出来ている。これらのサークルのメンバーはそのことをよくわかっていることと思う。

しかし、ここに、遊びではなく、魚を突いて獲ることを職業としている突棒漁の人々がいる。そんなことが商売として成り立つのかと思われる、とらえにくく、分かりにくい不思議な漁に今回は迫ってみる。

カジキ類の回遊海域を広く追いかける海の狩人

突棒漁で主に狙うのはカジキマグロ類である。しかし、海面にいる大型の魚、例えばクロマグロやサメ類、マンボウそしてイルカやクジラなども出合えば獲る。

海面で漁業者が行なう釣りは自由漁業として漁業権にしばられないように突棒漁もどこでも操業できる。ただし、カジキ類がいないことにはどうしようもないので、沿岸よりは沖合や遠洋に出かけることになる。

このように漁業権とも、都道府県知事や農林水産大臣の許可とも関係のない自由で気ままな漁業なので全く規制を受けず、その代わりにどこから面倒も見てもらえず、獲れなくても自己責任というある意味大変な漁業といえる。

山にクマを求めて入るマタギのように、カジキ類の回遊海域を広く追いかける海の狩人は、お役所の管理というか監視の網からすっぽり抜け落ちているというか把握するのが困難なので農林水産省の統計などでもその実態を知るのは無理であるというかその存在は無視されている。しかし、漁獲が存在するのも事実なので完全に無視することもできず、大部分の統計において、突棒漁は〝その他の漁業〟に入れられており、その量的な全体像を知ることはできない。

この突棒漁の全体像をつかみにくくしている理由はいくつかある。

まず日本各地で近くの海にカジキ類がやってきたり、遠くまで他の魚を狙って出漁した際に出会ってこの漁を始めるという場合も多く、全国どこでも多くの漁師が毎年続けるという漁ではない。そして基本的に大きな群をつくることのないカジキ類が、黒潮流域を季節的に大移動しているものを数隻の仲間同士では連絡し合うが、漁船は基本的に単独で洋上をカジキ類を追い求めるのである。

ある意味で、全国の縁日・祭りの場を求めて渡り歩くテキヤ(的屋。香具師ともいう)や見世物の全体像がわかりにくいのに似ている。しかし、そういった商いをする人々は、全国の縁日や祭りの予定表をもとに南から北へそしてまた南へと移動している。

突棒漁の場合には縁日や祭りの予定表にあたるものがカジキ類の回遊実態である。そこでカジキ類の分布と回遊を把握することから始める。

共に目撃したのが現在の妻との出合い

突棒漁がめあてにしているカジキ類を北のものから順に見てゆく。

メカジキ:冬から春先まで房総半島沖合の南東海域で過ごし、八月には北海道沖まで回遊する最も北に分布するカジキ類。体長四メートル、体重三五〇キロ以上となり、中には六〇〇キロを超すものも。背ビレは動かない。三陸沖で多く獲れる。

マカジキ:冬には台湾からフィリピンの東方沖合にいるが八〜十一月には三陸はるか東方沖に回遊する。マカジキ類中最も美味。驚くとジャンプする。

バショウカジキ:体長三メートル、体重六〇キロ位と小型。九州近海に多くカジキ類で最も接岸性が強く原発温廃水の影響も受ける。拙著『原発に侵される海』(二〇一五、南方新社)の第一部第二章、秋太郎物語(七三〜一〇〇ページ)は、今のところバショウカジキの生態や漁業について最もよくまとめている。

クロカジキ:最も南に分布するカジキ類で台湾からフィリピンの東方沖合にまでしか北上しない。日本の近海では八丈島近海に多い。全長約五メートル、体重約九〇〇キロに達する。

その他ではシロカジキが東シナ海に多い。

これらの中で筆者が海上から実物を見たのがバショウカジキである。二〇年ほど前、紅海の入口でピースボート(オリビア号)の先端から波を切るのを見ていたら水面に背びれを拡げ側面をいっぱいに見せているバショウカジキに出合った。まさに、突棒の獲物としては格好の状況であった。それを共に目撃したのが現在の妻との出合いでもあった。

このようにカジキ類は黒潮の流れる海にはいたる所に出現するので、日本列島の太平洋岸ではどこでも突棒漁ができる。それが文字とされ記録が残っているのは七カ所ほどで、一八八七年(明治二〇年)からカジキ突漁が始まった長崎県対馬、後に詳しく述べる大分県臼杵、愛媛県史にある八幡浜の三瓶。須崎(最盛期には突棒船が一五隻あった)を中心とした静岡県では突棒漁の漁獲高が二八六トン(一九七六年)から一〇トン(一九九一年)の範囲で変動している。

大島、三宅島等の伊豆七島については、西村ら(一九七一)の突棒漁でのマカジキ漁に関する水産研究では唯一と言ってもよい日本水産学会誌への論文がある。千葉県の外房は大分県と共に突棒漁発祥の地で歴史は古いがこれも後述する。三陸沖は多くのカジキ類が来遊するので現在でも宮城県の気仙沼市唐桑や岩手県釜石等はネット上で突棒漁が話題になっている。またテレビでも絵になることもありよく取り上げられる。

出漁の際にカジキ類が多く見られたので突いたというのが突棒漁のはじまり

あまり知られていないが、突棒漁について歴史、漁の実態、漁獲量の変化等について漁業者の話もよく聞きまとめた教科書というより今となっては唯一の貴重書と言えるものが一九八九年に発刊されている。

その大分県臼杵事務所水産課の作成した六八ページと写真一八葉よりなる「黒潮の狩人 かじき突棒漁業の沿革」はすごい、というより何しろ面白い。その中には、一九六六〜八七年という、突棒漁業の激変期における大分県突棒船の総隻数と平均トン数、そして年総漁獲量の変動が図示されているので、ここから読み取れる数値やその他大分県の多様な資料をもとに大分県の百年余の突棒漁の移り変わりを見てみる。

明治三四年(一九〇一)大分県北海部郡のカジキ突二七隻が韓国近海に出漁したのが記録に残っている。人数一三二人で漁獲高一二三九三円とのこと。この年韓国出漁数のダントツ一位はフカ延縄で一三九隻、六一五人、一三四八三〇円とのこと。この漁で出漁の際にカジキ類が多く見られたので突いたというのが突棒漁のはじまりとも言われている。そして、一九一九年には動力船も出現し、対馬沖等へ県下二〇〇隻超が出漁し、五一〇トンを漁獲している。この頃から十数年が突棒漁の第一の興隆期で、千葉船も一九二二年、七四隻が操業している。

これら突棒漁は戦時に活躍するということで徴用されほとんどがもどってこなかった。そして、戦後一九五〇年代に八〇隻を超えるまで回復した。これが一九七〇年前後までは、平均三四トンの船七〇隻で一九五〇トンレベルを平均的に漁獲し続けたが、大目流しの開始等によりカジキ類が大きく減少し、漁獲量も四、五年で二五〇トン前後に激減した。漁船も当初七、八年は平均で四〇トンまで大型化していったが隻数は七隻にまで減少した。一九八〇年代は平均十一トンと小型化した漁船二五隻ほどで、二五〇トン前後のレベルを漁獲する低位安定状態を維持した。けれども少しずつ減少し一九九五年に一億円だった水揚金額が一〇年後の二〇〇四年には一千万円となってしまった。

このような流れの中で大分県全体で突棒船七〇隻だった時に風成地区は一六隻、一九七〇年は松下(一九七二)によれば一七隻、そして前述「黒潮の狩人」(一九八九)では一九八八年に三隻と、全国的な突棒漁激減の波はさすがの風成もどうしようもなかった。しかし、前回の本欄で最後にふれたことが気にかかり二月の大分行で風成に行ってみたら、漁港に突棒船の姿を見ることができた。漁協によればまだ二隻健在とのこと。なお、臼杵地区の突棒船の中には一九七三年頃から大敵の大目流し網に同じ漁法で挑戦し、一九七七年には七隻が着業した。しかし、四〇トンクラスの船で一〇〇トン以上ある大型船にたちうち出来ず二年で壊滅した。

漁獲性能は原爆と竹槍ぐらいの差がある

突棒に対して、大目流しの漁獲性能は原爆と竹槍ぐらいの差があると漁業者は言っている。カジキ類の漁法別・魚種別水揚量について突棒漁業も明記されている資料が水産庁のマグロ会議報告二〇〇一年分にある。唯一の貴重なものである。

一二一四四トン中六七%がまぐろはえなわでの混獲、二四%が大目流しという刺網により、突棒は一・三%の一五四トンである。一五四トンの内訳は、メカジキ六八%、マカジキ三〇%、クロカジキ二%、バショウカジキ〇・〇五%である。それゆえ、漁獲圧力が大きいのは大目流しよりはえなわなのである。そしてマカジキについては日本の大規模漁業による影響で漁獲量が減ったと言えるがメカジキとクロカジキについては米国、台湾、メキシコ等他国のはえなわやまき網による漁獲が一九七〇年代から増加していることがその原因と言える。

カジキ類は太平洋を広く回遊しているが、一九七〇年以前はある意味、突棒漁がカジキ類を台湾から北海道まで好きに獲っていた。すなわち、船体の大きさやエンジンの能力が時代、時代で許す限り常に沖合そして遠洋へとカジキ類を追い求めた。その結果として大分県の突棒漁は朝鮮、台湾、東シナ海へと、遠洋漁業奨励法をも利用した日本の海外進出や植民地化という日本の侵略の動きの中でそれに便乗したり、先兵となって出漁していっている。

⑴一八九四年の東学農民戦争から一九一〇年の日韓併合まで、大分県出漁船数は激動している。⑵一九五一年の李ライン設定により転業廃船するもの続出。⑶一九五六年一月、大分県突棒漁業組合(カジキ漁)が、魚釣島附近へ出漁を再開するため石垣、与那国に前進基地の構築を検討と琉球新報が報じている。

風成の男たちは今だもって突棒漁をやり続けている

大分県と共に千葉県は突棒漁の歴史は古く、突棒漁の第二興隆期といわれる一九五〇年代の前半一九五三年から五五年の平均七八隻の船で年間三六六トンの漁獲高という数字が「千葉県の水産」に見られる。その千葉県の突棒漁は大分県のような国際的なことは少なく漁場はより北に位置している。そして、大目流し網等によるカジキ類の資源の減少の影響は大分船と同じように大きかったのも事実である。しかし、千葉県船は他の漁業と兼用の大型船でやっていて、突棒以外のサバやサンマ狙いの漁業にすぐに転換して突棒漁にはさっさと見切りをつけた。

その外房で突棒漁の村ともいえる千葉県千倉町(現南房総市)の白間津地区(もと七浦漁協であり、七浦村の時期が長い。)について小島孝夫(一九九一)は「海と列島の文化 第七巻 黒潮の道」の中で、「房総の突きん棒漁─突きん棒漁村の成立と終息」において突棒漁を支えている半農半漁の業いを考えている。その白間津の女性が海女や花・野菜づくりにかかわる生活は田仲のよの著書『海女たちの四季』(加藤雅毅編一九八三)、『磯笛のむらから』(加藤雅毅編一九八五)および『海女小屋日記─房総半島・花と海の町から』(一九九一)でよくわかる。

一九七二年という時期に突棒漁についてよくまとめている松下竜一の『風成の女たち』では風成という突棒漁村での男と女の暮らしをよく伝えている。しかし、臼杵市を中心とした大分船が四〇トンから一〇トン以下にし、七〜八人乗りから二〜三人乗りに変えながらその後四〇数年近く今だもって突棒漁をやり続けているのは何故かということには答えていない。特に風成は漁家の経済も白間津より厳しいにもかかわらずである。

この二月臼杵市を訪れた折に泊ケ内でタチウオはえなわ漁をやっている上浦・深江歴史文化研究会会長の小松喜久夫さんらが協力した臼杵ケーブルテレビ二〇一七年三月八日放送の「突棒漁─臼杵を支えた海の狩人─」を知った。これは貴重な文化遺産といえる。その中で一〇年前に視力的に無理となり突棒漁をやめた深江の第三竜栄丸、高野房夫さん(七五)の妻信子さんが、〝出漁中に各戸の受信機に夜八時になると漁の模様を知らせる暗号での放送があったという。手元の暗号表で解読し、一喜一憂していた〟と話しているのが印象深かった。これはもしかしたら独特の勝負の世界というかバクチをやっているのかもしれない。

松下(一九七二)では、風成の突棒船の漁師についてその気風というか気概や気骨をよく伝えている。今となってはこの三つの気のつく言葉は今の若者には殆ど伝わらない。まさに一九七〇年前後に、往時のさかんな突棒漁の勢いは消滅し始めていたのである。風成事件といわれる、風成の女たちの埋立反対運動もその時代、日本全土をまき込んだいわゆる「公害」反対運動の空気に影響されたことは否定できない。しかし、風成の男たちが突棒漁をやり続けたのはそれとはちがう。何だろうか。

ホンモノの漁師とは

最近はホンモノの漁師とは何なのかということをよく考える。漁村の人々の集団の気質とも深くかかわった海や魚への対し方、かかわり方、生き方の問題なのかもしれない。

こんなことを考えるのは探検家、角幡唯介『漂流』を読んだからかもしれない。まぐろはえなわ漁船の遭難で漂流し、友喰いすれすれの三ヶ月後に救出された漁師がその三年後にまぐろ漁で出漁し行方不明になる。なぜかと角幡はたずね歩く。彼も分からないのである。結局納得する理由は見つからないのであるが、その漁師の出身地である沖縄県宮古島の西隣、伊良部島の東岸にある佐良浜に行って少しわかりかける。

前号の最後に、風成は明治のはじめに現在の臼杵市内にあった十一の村の一つと書いた。白間津も七浦村になる前の一八八八年村として独立していた。そして村の漁業会もあった。

今私は漁村の自立とか維持について、村であることを現在でも続け、一つの漁協として存在し続ける漁村に強い関心をもっている。

(了)

『原発に侵される海―温廃水と漁業、そして海の生きものたち』水口憲哉(2015)南方新社刊 75頁より

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