各所で水害が起きています。今まで考えられなかった規模の被害です。
近年、関係者の議論の結果、中止になったダム計画が全国に出てきていました。しかし昨今、それらのダム計画を行政が復活させる動きが見られます。名目は水害対策です。
大切な命と生活を守るためには、水害を防ぐ原因と効果的な対策を、あらゆる方向から網羅的に検討する必要があります。ところがダムに関しては別です。まるで水害を待っていたかのような狡猾さにおいて、行政における「ダムありき」の構図が浮かび上がります。
2020年夏に起きた球磨川大水害の被害と今後の対応について、元東京都水産試験場主任研究員の加藤憲司さんのリポートです。加藤さんは熊本県人吉市に暮らしていらっしゃいます。
12年前、蒲島知事自らが「ダムによらない治水対策を行う」として白紙撤回した川辺川ダム計画が、ここにきて一気に再浮上したのである。
しかしこんな乱暴かつ拙速な話はない。
ダム建設を推進する側の国交省が作成した資料を唯一の拠り所として、ダムの建設に向けて奔走する。どう考えても無茶な話である。
白紙撤回された「川辺川ダム」が復活させられようとしています。
(フライの雑誌-編集部)
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2020年7月 球磨川大水害から見えたもの
加藤憲司 熊本県人吉市在住・元東京都水産試験場主任研究員
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豪雨の夜明け
2020年7月4日午前4時半。
屋根に打ちつける激しい雨音で目を覚ました私は「まだ降っているな」とつぶやいた。白みはじめた空からは、昨夜来の大粒な雨が休むことなく落ち続け、地面にしぶきを立てている。
気象情報を確認するべくテレビをつけた。幸いに停電はしていない。
画面には「午前4時50分、気象庁が熊本、鹿児島両県に大雨特別警報(数十年に一度の大雨:警戒レベル5の最高ランク)を発表した」とのテロップが流れていた。
大雨特別警報に遭遇するのは初めての経験である。「これは尋常ならざる事態になっているな。」と自分に言い聞かせる。
夜が明けるにつれて、テレビでは人吉市内の洪水の様子が放映されはじめる。球磨川が溢水して、住宅が屋根まで浸水している。そしてさらに「球磨川上流の市房ダムが午前8時半より緊急放流を検討中」とのテロップが流れた。
「大変なことになったぞ。」
私の頭には、2年前の愛媛県、肱川氾濫の光景が浮かび上がった。2018年7月の西日本豪雨の中で、肱川上流の野村ダムと鹿野川ダムに決壊の危機が迫った。
この結果、二つのダムは緊急放流を行い、氾濫に巻き込まれた下流の住民8名が犠牲となったのである。その後流域住民は、ダム管理者である国などを訴え、裁判で係争中である。
もし市房ダムが緊急放流されれば、現在すでに屋根まで達している浸水水位が、大幅に上昇するのは確実である。想像を絶する被害が頭をよぎった。
橋が流された
午前8時前頃から雨脚は幾分弱まってきた。 テレビ画面には「市房ダムの緊急放流は中止」とのテロップが流れ、ひとまずホッとする。
すっかり明るくなり、周辺の様子を見に県道まで出てみる。集落の人たちも三々五々道端に出て情報を交換している。
「人吉市街へ出る2本の道がどちらもダメになっている。豪雨の水流で路面が深くえぐられ車が通れる状態ではない。球磨川支流に架かる橋も完全に流されている。」などなど。
私の住む50戸ほどの集落(人吉市街から5キロほど離れた高台にある)はまさに孤立状態に陥っていた。
家に戻って、引き続きテレビで情報を収集する。被害の状況が刻々と伝えられていた。死者も出ているらしい。
堤防の決壊や大規模な土砂崩れで家屋の倒壊している様子がヘリコプターからのカメラで映しだされる。住宅の屋根に避難した住民がヘリに吊り上げられ救助されている。
人吉市を通るJR肥薩線の球磨川に架かる鉄橋、そして生活道路の橋が何本も流されているのに驚愕する。幸い、わが家から人吉市街へ出る道路のうち1本は、応急修繕によって3日後には何とか車が通れるようになった。
その後、被害の全貌は徐々に明らかとなり、熊本県内での死者は65人、行方不明者2人、家屋の全半壊は約4500棟、床上浸水は約1500棟となった(2020年10月3日現在)。
釣り場はどうなっているか
1週間ほどして川の水位は少しずつ下がりはじめた。球磨川最大の支流である川辺川の水色も澄んできた。もう釣りのできる状況である。
しかし一方で、球磨川本流の水は依然茶色く濁ったままである。上流の市房ダムに流入した濁水層が放水口付近に滞留し、本流に流れ出しているのであろう。こうなると、1ヶ月ほどは川の濁りがとれない。本流での釣りは当分の間諦めなくてはなるまい。
豪雨から2週間あまりたった7月21日、私の渓魚釣り場である川辺川上流へ出かけた。幸い道路は何とか車が通れる。しかし川沿いの道路はいたる所で崩落し、ガードレールが宙吊りになっている場所もある。
釣り場へ着いて竿を出すと、すぐに24センチほどのヤマメが顔を出してくれた。その後も飽きない程度に釣れてくる。「思ったより魚は減っていないな。」という感触が得られた。
それでも、渓相の荒廃はすさまじかった。河床には以前にはなかった巨大な岩が多数転がっており、渓谷斜面には多くの土砂崩落箇所が認められる。深くて、緑の水を湛えていた大きな淵は小砂利に埋まり、半ば瀬の状態となっていた。
私が尺物を何匹もかけた実績のある淵も、土砂で完全に埋めつくされており、ポイントとしての価値は失われていた。
いずれも出水の激しさを物語るものであった。
崩落土砂による渓魚への影響
洪水から2週間ほどたち、確かに魚影はそれほど薄くなっているように思われなかった。しかし、心配なのはむしろ今後である。
とりわけ、土砂の崩落状況は憂慮された。すでに述べたように、崩落土砂は大きな淵を埋めて河床を平坦化してしまう。
淵は渓魚の重要な生息場所である。解禁直後の低水温時、大多数の渓魚が淵に集まっているのは釣り人ならば誰でも知っている。この淵が消失した谷では、まず渓魚の生息空間が大幅に狭められてしまう。
もう一つ、崩落土砂が渓魚資源に与える悪影響が「産卵環境の悪化」である。崩落土砂の中に含まれる細泥(シルト)は河床の砂利のすき間を埋めてしまう。
秋の禁漁後、渓魚はオス・メスがペアになって川底の砂利の中に産卵する。卵には、砂利の間隙を通過する河川水によって酸素が供給される。この酸素によって卵は呼吸し、やがてふ化する。そして春先、砂利のすき間から体長3センチほどの稚魚が流れの中に泳ぎだし、エサを食べ始めるのである。
しかし、砂利のすき間がシルトにふさがれた状態では、砂利に埋もれた卵に酸素が供給されない。当然のことながら卵は死んでしまう。
私たちが行ったヤマメの産卵場調査でも、川底からシルトが舞い上がってくる場所では死卵の割合が圧倒的に高かった。北米では、渓魚の産卵場保全のため、森林レンジャーが崩落場所に草のタネをまいたり、木を植えるなどして環境の回復に努めているくらいなのである。
陸上を含めた生態系全体を守る
土砂崩落箇所からのシルト流出は、植物が生育・定着するまで数年にも及ぶ可能性がある。
また、渓魚(ヤマメ)の寿命は2~3年程度であることから、シルトによる「ふ化率低下→資源量減少」は数代(4~6年程度)にわたり継続することも考えられる。
さらには、平坦化した河床が適度の出水によって洗掘され、元の淵の姿を取り戻すには5~10年以上を要することも予想されるのである。
洪水が渓魚資源におよぼす影響としては、このほかにも、様々な要因を挙げることができる。
例えば、渓流を取り巻く森林(渓畔林、河畔林)は、河川に直射日光が当たるのを防いでいる。そして、水温の上昇を抑え、冷水性魚類である渓魚の生息環境を守っているのである。洪水によって、この渓畔林が荒廃すれば、環境は一気に悪化してしまう。
また渓畔林は、渓魚のエサの重要な供給源でもある。夏季の渓魚のエサは、その大半が陸上由来の生物(ミミズ、カエル、ヒル、羽化昆虫等々)であるのは、皆さんご存じのとおりである。
陸上を含めた生態系全体を守ることの重要性がご理解いただけると思う。
川辺川ダム計画が再浮上している
球磨川大水害を現地で体験したものとして、皆さんにお伝えしなければならないことがもう一つある。
水害の発生した7月4日から3ヶ月あまり経過した10月6日、今回の豪雨災害の第2回検証委員会(国土交通省、熊本県、球磨川流域12市町村で構成)において国交省は次のような発表を行った。
「川辺川ダムが存在した場合、人吉市の浸水面積は6割減少したと推定される。」
そして蒲島郁夫熊本県知事は、「この国交省の資料をもとに、住民や各団体との意見交換を行い、あらゆる選択肢を検討していく。」と述べて川辺川ダム建設計画の復活を示唆したのである。
10月21日には、球磨川流域市町村でつくる「川辺川ダム建設促進協議会」が「川辺川ダム建設を含む治水対策を急ぐよう」赤羽一嘉国交大臣(公明党)に要望した。そして蒲島知事も「年内のなるべく早い時期に対策を決定したい。」と述べている。
12年前、蒲島知事自らが「ダムによらない治水対策を行う」として白紙撤回した川辺川ダム計画が、ここにきて一気に再浮上したのである。
しかしこんな乱暴かつ拙速な話はない。
ダム建設を推進する側の国交省が作成した資料を唯一の拠り所として、ダムの建設に向けて奔走する。どう考えても無茶な話である。
釣り人の立場から言えば、球磨川と川辺川は尺アユ、そして40センチを超える大ヤマメの釣り場としてかけがえのない川である。
観光経済の目玉としても、全国の釣り人が川辺川に魅せられ、訪れている現実を忘れてはなるまい。
一方で流域の自治体は、これまで幾代にもわたって「ふるさとの誇り」として受け継いできた「日本一の清流」のカンバンを下ろさざるを得なくなるだろう。ダム下流では豊かな水量が細り、濁水が長期にわたって流れるからだ。
50年ほど前までは考えられなかった規模の豪雨被害が各地で頻発している現在、今こそ大人たちは自らに真剣に問い直さなければならない。
「ダムによる治水対策で本当によいのだろうか。ダム建設によって川辺川の清流を失い、未来を生きる子どもたちに莫大な負の遺産を残してよいのだろうか。」と。
ダムの完成には、これから何年もかかるはずである。せめて1年くらいは時間をかけ、多くの研究者の手による試算について十分に検討を加えるべきである。
そして、将来にわたる事業の採算性について多方面(経済、環境、教育等々)から検討した後に、改めて治水対策を決めていくべきであろう。
表 日本における近年の主な自然災害
年 災害名
2011 東日本大震災
紀伊半島豪雨
2012 九州北部豪雨(熊本県など)
2014 広島市豪雨土砂災害
御嶽山噴火
2016 熊本地震
2017 九州北部豪雨(福岡、大分県など)
2018 西日本豪雨
北海道胆振東部地震
2019 東日本台風19号被害
2020 熊本県豪雨球磨川大水害
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