フライの雑誌-第121号(2020)から、〈水辺のアルバム18〉漁村の選択 富める村、淋しい村(水口憲哉)を公開します。
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水辺のアルバム18
漁村の選択
富める村、淋しい村
水口憲哉
(東京海洋大学名誉教授・資源維持研究所主宰)
フライの雑誌-第121号(2020年発行)掲載
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かつて「貧乏見たけりゃ猿払へいきな。」と言われた北海道猿払村は、いまは平均所得が全国で3位である。
今年六月三日の朝日新聞の〝10万円 最後の支給は「最北の村」〟は充分に刺激的である。
この村は北海道稚内市の隣の猿払村で、裕福な漁村として有名であるから、筆者は、余裕かましてやがんのと呟いた。居住しているいすみ市では、六月二日に給付金を入金してそれなりに足しになったと思っていたから。
今は高所得で平均所得が全国三位の市町村と騒がれたりしているが、この村も「貧乏見たけりゃ猿払へいきな。」と言われた時期もある。今回はこの小さくて大きい漁村の物語。
話を進める前に、面白い資料に出会った。花木幹史(二〇一三)〝猿払村開村90周年によせて「内灘村からの漁業移住者たち」内灘町と猿払村のつながり〟は内灘町史、内灘郷土史、猿払村のホームページ、猿払村のパンフレット等を基に考えた五〇ページに満たない資料だが漁村の成り立ちと交流そして現状を考えさせる貴重なものである。
これに加えて、猿払村史(一九七六)と猿払村史第二巻(二〇一四)等も参考に、この二つの漁村の過去と現在を考えてみる。
水産事項特別調査によれば、一八九〇年頃猿払村には八戸、二二人の漁をする人々が住んでいた。これらはすべてアイヌの人々だったと考えられる。というのは、村史によれば一九〇一年家屋一七戸(和人住宅は駅てい、番屋、商店の三戸)とある。なお、村内猿骨に石川県人五戸移住(一九〇〇年)ともある。
内灘村(現在の石川県内灘町)では、一八八六年(明治一九)にコレラが大流行し、村内で一番大きな集落大根布だけで三二五名の死者が出ており、その後は村外への漁業移住者が急増した。また、内灘村での漁業収入は少なく、出稼ぎ漁業の収入を足しても、一九〇九年の租税負担額が河北郡平均の三分の一と貧しい漁村であった。
この貧乏な漁村ということでは内灘村は、一九六二年に町になるまでは戦後出稼ぎ漁業も衰退し、地元漁業もふるわず、一九六〇年代の猿払村と同様であった。
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内灘村の漁民が全国各地と南米へ出稼ぎに行った全容をまとめた〝内灘の出漁史〟。
次に内灘漁民の猿払村におけるホタテ貝漁立ち上げの情況を見てゆくが、それに関する一番詳しく貴重な資料が中山又次郎(一九六三)「内灘郷土史」と言える。
中山又次郎は一八八五年生まれで、河北郡の小学校教員を経て一九三四年から内灘村役場、漁協、農協で勤務した後に一九四七年から一九五三年まで内灘村村長をやった。内灘郷土史の凡例中に「一、昭和二八年退職したので更めて編集を思い立って手を拡げ調査し出した。米軍引き上げ廃品処理の金の中から拾万円交付を受けて全国一周、出漁史を書き上げた。」というのがすごいというか面白い。
この内灘村の漁民が全国各地と南米へ出稼ぎに行った全容をまとめたのが、本書中の〝内灘の出漁史〟(四五五~五二八ページ)である。この中に、明治時代後期稚内に定住して、猿払沖合でホタテ貝桁網漁をやる内灘村出身の漁業者が増加してゆくとある。
その頃猿払村には地元漁業者が殆どいなかったが、村民は次第に増加し漁業組合をつくり、漁獲量の多い優秀な石川県船への入漁規制を強化するなど締め付けが段々厳しくなる。しかし、地元経営のホタテ漁船に雇われるなどして戦前戦後まで内灘漁民は頑張り続けた。
猿払村でのニシン漁は一九五三年に終了し、ホタテ漁も翌年の一六九五トンという漁獲の後急減し、一九六四年には全面禁漁となる。内灘村からの出稼ぎもそれに伴い一九五六、七年に終了となる。また、一九四九年には四〇〇人近くいた猿払漁協組合員も一九六一年には一七六人となり、その十年後には七六人となり漁民は次々と離村する有様であった。
いっぽう、内灘村では中山村長在任の後期一九五〇年から五三年までは朝鮮戦争の時期と重なる。重なるどころか、内灘闘争渦中の村長として奮闘した。結果として米軍に内灘砂丘を砲弾の試射場として接収されたが、闘争は一九五七年の米軍撤収で終息した。
その経過は内灘郷土史の二一五ページにわたる最終章〝内灘の接収〟に詳しい。その終わりの四三ページ〝寄せられた書状〟は反対闘争を支援する全国各地の多数の人々からの声を収録したもので圧巻である。
なお、米軍が朝鮮戦争で使用した砲弾を納入したのは現在エアコンメーカーとして有数のダイキン工業と、農業用など重機類の大手メーカー小松製作所である。戦争特需そのものと言える。
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内灘村はにぎやかな漁村として一九六一年、独自に町となった。
内灘村は、河北潟と日本海にはさまれた七一四戸、人口四〇八七人のにぎやかな漁村として一八八九年に発足した。そして一九六一年には八二一〇人になり隣の金沢市と合併することなく独自に町となった。
それには試射場問題を乗り切り河北潟を干拓したことが関係している。一九五三年に着工した試射場補償事業としての灌漑用排水路事業、一九五九年に始まった内灘試射場跡補償事業防風林工事(五六五〇万円)、一九六四年に開始された干拓本工事等により、砂丘地帯と河北潟が農地、住宅地、工場用地となった。一九七〇年には放水路の南岸に金沢医科大学の建設が進められ、北岸の火力発電所建設計画は立ち消えとなった。二〇〇五年の国勢調査では金沢市への通勤率は五二・四%と金沢市のベッドタウンとなった。
ホタテを全面禁漁とした猿払村では、背水の陣で一九七〇年のホタテ稚貝の大量放流による漁場造成事業に挑戦した。借金だらけの大変な苦労の末に一九八四年には四万トンの漁獲量を揚げるようになった。ホタテ景気の頃はいわゆるホタテ御殿の建設ラッシュで話題にもなった。
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漁村の元気さと持続性は、漁獲物、収獲物の販売金額と労働人数の関係を整理した結果の〝子供のにぎわい度〟に現れると考える。
それでは、戦後は大変な時期を過ごした猿払村と内灘村は、現在どうなっているのだろうか。漁家に限った、より詳細な国勢調査ともいえる五年に一度の漁業センサス調査の結果でそれを見てみる。
それを表にまとめるに当たって、それぞれの隣接する市と、北海道では高レベル放射性廃棄物最終処分場決定の参考にする調査の第一段階である文献調査に、町村長や議会の考えだけで手を挙げた、国からの交付金を洋上風力発電のために使いたいという北海道寿都町と、泊原発に隣接する北海道神恵内村を加えた。
この表では、漁獲物、収獲物の販売金額と労働する人数に注目し整理したが、その結果として立ち現れる子供のにぎわい度を中心にここでは検討する。
漁村の元気さと持続性を考える指標として、筆者はここ数年、ある地域の一四歳以下の子供の人数を一五歳以上の人数で割った数値を参考にしている。ただし、漁業センサスでは、年齢別の世帯数が個人経営体についてしか調査されていないことが問題となる。
その結果、共同経営体化したことが豊かさの原因とも言われている猿払村では、漁業地域の子供のにぎわいがゼロとなっている。高齢化した七戸の個人経営体では一四歳以下の子供が一人もいないということである。
しかし、二〇一三年の漁業センサスでは、個人経営体が一七で、世帯員八〇人のうち一四歳以下が一三人いて、子供のにぎわいは〇・一九四であった。この年、猿払村の子供のにぎわいは〇・一八八で、漁業地区が村より元気だと評価した。共同経営体の世帯員構成も含めて計算したらその差はもっと大きくなるものと思われる。
ちなみに内灘村は二〇一三年の子供のにぎわいは〇・一七一であり、漁業地区は八八人いて一四歳以下は一四人だった。子供のにぎわいは〇・一八九と猿払村と似た関係であった。しかし、五年後に内灘村では漁業地区での高齢化等による年齢構成の変化が進み六〇人のうち一四歳以下の子供は三人となった。
ベッドタウンとして元気な街の中で、漁業地区は急速に淋しく元気がなくなりつつある。
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「我々は九九%である」を思い出した。猿払村の漁民がいくら高所得だといっても決して一%ではない。
ここで、今号の「釣り場時評」(2ページ)でふれた財産区が給付金とからんだ、週刊ポストのニュースポストセブン(七月二日)「〝日本一の富豪村〟が全世帯に3万円支援できる謎とその原資」にふれる。これも市町村合併時の財産区の問題である。
一九五〇年に近隣三町村とともに神戸市と合併した住吉村には日本を代表する財閥や会社の創業者が私邸を構え、一九三二年兵庫県の一世帯平均の所得納税額が八八円だった時代に、住吉村は一〇七〇円だった。そして、この村は豊かな税収による広大な土地をはじめとする村有財産を持っていた。
しかし、神戸市と合併ということになった時、近隣の町村は合併時に財産区という特別地方公共団体を作りこの財産を管理したが、住吉村では財界人のアドバイスで財産を動かすのに神戸市長の決裁がいる財産区ではなく、住吉村に委譲されていた財団法人住吉学園に移管することにした。
旧住吉区は現在、神戸市東灘区の住吉南町、住吉東町、住吉宮町に相当するが、この地域の自治会地区の約一万八五〇〇世帯に三万円ずつ新型コロナ復興支援金として支援することを、住吉学園は決めた。
猿払村の高所得と富裕層の関係を考えているうちに、二〇一一年秋ニューヨークのウォール街を占拠した人々のスローガン、「我々は九九%である」を思い出した。この九九%を指摘したのは、占拠に参加していたアメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーである。この九月二日に五九歳で亡くなったグレーバーについては次号でまたふれる。
この運動はアメリカ合衆国において上位一%の富裕層が所有する資産が増加し続けている状況を表し、それを支えている政府による金融機関救済、富裕層への優遇措置などを批判し金融規制の強化を求めている。
この九九%である我々大部分と、一%の富を寡占する人々との関係はよくわかる。けれども猿払村の漁民がいくら高所得だといっても決して一%ではない。三Kの一次産業の現場で働く人々は九九%であるのは当然である。
しかし、漁業の世界、水産業界に限って一%の人々と言えば、大手水産会社の経営者達がそれに当たる。
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水産業界で1%の富裕層と言えば、大手水産会社の経営者たちだ。しかし漁業センサスには出てこない、漁業者ではないから。
漁業センサスにおける経営体の漁業層別分け方によれば、沿岸漁業層や中小漁業層ではなく、大手水産会社は大規模漁業層とも考えられる。しかし、二〇一八年漁業センサスでは、全国五四の経営体が大規模漁業層となっているが、東京はゼロで、大手水産会社は一社も入っていない。
これはどういうことかというと、日本水産がニッスイに、大洋漁業がマルハニチロに呼称や社名を変えたことからわかるように、大手水産会社は漁業部門を縮小し、総合食品メーカーに変貌していることを、漁業センサスは示しているのである。
その変貌の遅れた一社が、二〇一三年漁業センサスで、中央区に販売金額一〇億円以上の大規模漁業層として残っている。ここではその大手水産会社の実名や漁業実態を詮索することはせずに、海上作業者数だけを見てみる。遠洋まぐろはえなわ漁などに従事する雇用者の内訳は、県外の日本人八五人と、外国人二九三人となっている。ここに戦前とは場所を変えた国際的な出稼ぎ漁民が存在している。
猿払村の共同経営体の経営者たちは、センサスの海上作業従事者中に団体経営体の責任ある者五七として数字で表れているが、大手水産会社の経営者たちは、センサスのどこにも表れていない。しかし国勢調査の数字の中には紛れ込んでいるようである。
二〇一五年国勢調査で、東京都の内陸部に居住していて、労働として就業した産業を〝漁業〟とした一五歳以上の人が八〇人ほどいる。この人たちは水産会社の社員や経営者だと考えられる。これらの人々は漁業センサスには出てこない、漁業者ではないから当然である。
今年の国勢調査ではこれらの人々はどう記入したのだろうか。
(了)
〈フライの雑誌〉第122号を発行しました!
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シマケンさんギター弾きまくりの巻https://t.co/yOHAO3cCEr@YouTube— 堀内正徳 (@jiroasakawa) August 4, 2021
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— 堀内正徳 (@jiroasakawa) June 14, 2021