単行本『魔魚狩り』水口憲哉2005より、「ニジマスは好きか嫌いか」を掲載します。初出は『フライの雑誌』第18号(1991年12月)です。26年前後の現在も、問題の背景は変わりません。釣りと外来魚、放流の今後に関して、混迷の度合いを深めている現在の社会情況を読み解く一助となればと思います。
(編集部)
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ニジマスは好きか嫌いか
釣りというのは理屈や研究が巾をきかす世界ではなく、好みと遊びの世界である。それゆえ、人から与えられてやるものではなく、好みに従っていろいろなことを次々とやってみるのがよい。とはいっても社会も釣り場環境もいろいろ制約する。それはその都度考えてしのいでゆけばよい。
ニジマスの放流について意見を聞かれると、在来の魚に影響なければ賛成という回答が多いということを本誌の調査(編注:『フライの雑誌』第18号で実施)は示している。
何となくわかるような意見なのだが実はこれが確定的な判断を求めることが難しい水かけ論争に終わりがちな内容を含んでいる。すなわち、在来の魚とは何か、ある魚種が他の魚種に影響を与えるとはどういうことか、実際に大きな影響を与えるのか、といったことについて多数の人が納得する定義や多数の具体例による証明を、私たちがまだ共有していないからである。
ブラウントラウト放流の是非論やいわゆるブラックバス害魚論なども同様の問題をかかえている。これらの問題について、人と魚と水の関係を考えると同時に「求める自然が人によって異なり、と同時に人によって求め得る自然も異なっている」という見方(十五年ほど前に雑誌『アニマ』の時評「外来動物と純血主義」の中で示した)に従って、やや小難しくせまってみる。
ニジマスの釣りの対象としての好き嫌いの理由としてはいろいろある。
◎アメリカからの移殖魚であり、どこにでもやたらに放流し、コカコーラの日本侵略と似ていて気にいらない。アンデスのチチカカ湖にアメリカ人がニジマスを放流するなどはその典型で好かない。放流するのならホワイトフィッシュ(コレゴナス)のほうが似合う、と昔釣り雑誌に書いて、雑誌『淡水魚』誌上でいいがかり的な批判を受けたことがあるが、単なる好みに過ぎないもの。富士山には月見草が似合う的なもの。
◎釣りの対象として放流するのは良いとしても、解禁後間もなく釣れなくなり長く楽しめないし、地着きというか、野生化したものを釣る機会が少ない。
◎大きいものも釣れて面白いが、簡単に釣れてしまうのはどうも頂けない。
◎種苗生産技術が早くから確立しており、求めに応じた放流が容易であると共に、釣りの初心者でも釣りを楽しむことのできる釣り場づくりが可能である。
要約すれば、釣れる外来魚であるが故に、好まれたり嫌われたりするということになる。そして、それは釣るのが難しい在来魚を好んだり嫌ったりすることの裏返しともいえる。さらに、そのことは、求める自然、求め得る自然というよりはむしろ望んでいる釣り、可能な釣りが人それぞれ異なるということと密接に関係しているということをしめしている。ある意味ではそれは釣り人の年代論、経験論になってしまう。
すなわち、在来魚としてのイワナやヤマメがある程度容易に釣り得た時代に釣りを楽しむことのできた年代の人々や、釣行を重ねてゆくうちに幸いにもイワナや天然のヤマメに出会う経験をもち得た人々と、イワナや天然のヤマメは高嶺の花で、放流されたヤマメやニジマスを対象にしてしか渓流釣りなるものを始められなかった人々との間の感じ方、考え方の違いということかもしれない。
渓流魚といわれるものの生い立ちというか素性を整理すると、二つの分類の組み合わせによる四つのグループに大別できる。
日本列島に昔から生息していた在来魚といわれるイワナ、ヤマメと、欧米原産のブラウントラウト、レインボウトラウト(ニジマス)そしてブルックトラウト(カワマス)などの外来魚という第一の分け方と、それらが、その生息域で代々繁殖を繰り返している天然魚か人工ふ化等により養成された放流魚かという第二の分け方との組み合わせである。
第一、第二の分け方のどちらを重要視するか、どちらによりこだわるかでカンカンガクガクの議論をする人と、どちらも気にしないで、大きいのが沢山釣れればよいという人では差が大きい。そのようなことを考えるときに、アメリカ大陸における外来魚としてのブラウントラウトの扱われ方を見てみると面白い。
たとえば、カナダの水系では長年の間ブラウンはゲームフィッシュとしてあまり評価されなかった。それは、釣り人の多くがブラウンは釣るのが困難だという理由で移殖や放流に反対しているということによく表れている。筆者は、この釣るのが難しいということについて二十年前に雑誌『フィッシング』誌上で次のようなことを紹介している。
このニジマスの鉤がかりのよさと関連してアメリカやカナダでは面白いことがいわれている。ブラウントラウトは、カワマスやニジマスにくらべて釣られることが非常に少ないが、これは、そこの川のマスの各種類ごとの数に比例しているわけではなく、ブラウンだけが釣りにくいのだという多くの調査報告があり、たとえばクーパー(一九五二)は、カワマスはブラウンの七・五倍だけ釣りやすいと報告している。
このことから、ブラウントラウトが釣りにくいのは、より〈賢い〉からだと考えられ、逆にカワマスやニジマスは〈賢くない〉ため、よく釣りとられると─。また、この三種について、学習や識別の実験を行った場合も、ブラウントラウトはより速く学んだという。
さて、この〈賢さ〉における差は、何によってもたらされたのであろうか。それはブラウントラウトがアメリカに渡ってくる以前のヨーロッパ時代も含めて、数千年にわたって釣り人に接してきたことと大いに関連のあることだろう。これに対して、新大陸原産のニジマスとカワマスは、釣り人の鉤を知るようになってから、わずか二百年くらいで、この差であるというのが、ブラウントラウトの賢さ、ニジマスの賢くなさに対する説明の一つになる。
釣り人と魚との〈勝負〉といった形容も当てはまるような日本のイワナ・ヤマメ釣り。この二つの魚にも、ブラウントラウトについてと同じことがいえるのではないだろうか。さらにまた、日本のニジマスの場合、養魚場で毎日餌をもらって大きくなり、そのままポンと川に放されてしまうわけで、勝負も何もあったものではなく、何もわからずに釣りとられてしまうという面も多い。
以上、ニジマス釣りは面白くないという人にも一利があることの裏付けである。しかし、ニジマス釣りはつまらないというのは、ある意味ではぜいたくなことかもしれない。なぜなら、釣り堀のような川でも、マスを釣ったそのことで一日を楽しく過ごせたと思う人が増えているからである。
長々と二〇年前の文章を引用したが最後の日本における情況は殆ど変わっていない。変わっていることといえば、釣り人との接触の歴史に関してアメリカの先住民であるインディアンや、日本の東北、北海道の先住民であるアイヌの人々がこれらの魚にどのように接したか、ここ千年程、山で生活する人々がイワナやヤマメをどのようにして利用したかということにも注目して考えないと本当のことはわからないと、筆者が気づくようになったことぐらいである。
また、肝腎のカナダの事情も、一九六〇年頃からブラウンが釣り人と研究者の両方から高く評価されるようになるといった変化を示す。それは大型のブルックより漁獲圧に強い、すなわちなかなか釣れないので、釣られないで残っている大型のブラウンも楽しむことができるということと、ブラウンがブルックには適さない川の下流域でも生息できることが人気の原因のようである。
なお、以前に強かったブラウンが野生のブルックをしめだしてしまうという主張は弱くなったようである。これはある魚種が他の魚種をやっつけてしまうとか、駆遂してしまうということとも関連しており、人間の戦争のようなことを魚はやっていないという筆者の見方とも合致し、好ましい。これについてのミネソタ州の渓流における、三種のマスの増減に関する十五年間にわたる調査を行ったウォーターズ(一九八三)の報告は非常に面白い。
最後に筆者の考えをまとめてみる。
一、多様な釣りを楽しめる釣り場を確保することをまず大切に考える。それゆえ、川はどこでもアユ、池や湖はどこでもヘラかバス、渓流はニジマスといった画一化を拒否する。
二、在来純潔主義や自然繁殖至上主義はとらない。しかし、そのような釣りをしたい人々が満足できる釣り場も何%かは確保しておく。
三、若い人々の望む釣り、例えばルアーフィッシングの釣り場を充分に確保し、自分達で釣り場づくりをしてゆくような情報と人のつながりのネットワークをつくる。釣り具業界に動かされ消費させられるのでないやり方で。
四、釣りというのは理屈や研究が巾をきかす世界ではなく、好みと遊びの世界である。それゆえ、人から与えられてやるものではなく、好みに従っていろいろなことを次々とやってみるのがよい。とはいっても社会も釣り場環境もいろいろ制約する。それはその都度考えてしのいでゆけばよい。
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単行本『魔魚狩り』水口憲哉2005掲載
初出:『フライの雑誌』第18号(1991年12月)
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1877年、日本は米国から最初にニジマス卵の寄贈を受けた。1887年、日本政府は米国から輸入したニジマス卵を中禅寺湖と猪苗代湖へ移殖放流している。… サケ科魚類の海外からの移入と国内移殖は、水産庁が推進して全国各地の川と湖で、多額の税金を投入して進められてきた事業だ。そういった過去の事実は21世紀に入って登場した生物多様性の思想とはそぐわない。水産庁は苦慮しているが、すり合せはできていない。…
(堀内正徳)2014年3月
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