これまで引っぱりに引っ張ってきたフライの雑誌社のDTP環境を、いやいやながら新環境へ変更することになった。OS9.2からいきなりレパードへ移行する。ゲイシャラインからPVCに変わったくらいのインパクトだ。いまや印刷物の入稿といえばDTPに決まっていて、こんなことを口にするとラットイヤーな21世紀で三葉虫を宣言するようなものであるが、私はレイアウト用紙と級数指定によるデザインとアナログ版下入稿の、最後の世代にあたる。
1990年代初頭、私はトラウト・フォーラムの広報誌である「トラウト・フォーラム・ジャーナル」の編集を預かっていた。創刊5号くらいまではまだアナログ製版だったはずだ。皆から上がってきた原稿をパチパチとワープロで打ち直してテキスト化し、写植を打ってもらい切った貼ったの手作業で版下を作っていたものだ。
ところが、TFのような貧乏団体には写植費用が馬鹿にならない。そこで当時はDTPがようやく一般ユーザーの手にも届くようになってきたかな、という時代だったので、思い切って個人的に68系「Centris」を友人から中古品で購入した。周辺機器は世話になっていたデザイン事務所のをアレした。
PageMakerで版下ベースを作り、写真はポジか紙焼きで製版屋さんに別途渡してフィルムを作ってください、というのがDTP第2段階だった。この手法を身内の印刷所とのやりとりでは「今回もいつもと同じ〈デジアナ〉でね」などと呼んでいたが、言葉のセンス的には恥ずかしくてこめかみが噴火しそうである。
「世話になっていたデザイン事務所のをアレ」となにげなく書いたが、そのデザイン事務所は早い時期にDTP環境を整えていたために、その時までにとてつもない高額投資をしていた。フォントフルセットとポストスクリプトプリンタ、スキャナと新品「Centris」本体で、導入時の予算が700万円はくだらなかったはず。しかも「Centris」では力不足が判明しすぐに「Quadra」、さらにPower Macへとばしばしバージョンアップしていった。事務所の社長がいかに太っ腹だったかがよく分かるが、やつは数年後に巨額の脱税で挙げられた。我々から搾取しまくって相当儲けていたのだろう。
我が社の新しいDTP環境についてちょっと自慢するつもりが、恵まれない釣り師の常でつい思い出話に走ってしまったので長くなった。以下続く、かどうか。