日野に引っ越して来たばかりの時、京王八王子駅近くのすた丼屋で高校生男子二人が丼をかきこみながら「先輩は新宿とか行きますか!」「昔はね。今は八王子でいいや」「俺はめちゃくちゃ行くっすよ。新宿いいっすよね!」 って会話を耳にして、これはやばいところに来ちゃったと思った。
わたしは青春期を立川ですごした。高校生の時分には「新宿行くならおれは奥多摩行くよ!」と強固に主張して若者一般が好むものに背を向け、1980年代半ばの奥多摩川本流のヤマメ釣りに没頭していた。正確には釣りではない。釣れなかったから。まじで釣れなかった。
あの釣れなさ加減が身に染み込んでいるが故に、おっさんになったいまでも魚釣りなんかしている。若い頃の怨みを今こそはらさでおくべきかって。まったくめいわくな中年だが、釣れない怨みは湿った雪のように重なるばかりだ。
すた丼屋での高校生の会話を思い出したのは、こういうことを言いたかったのではない。
すた丼屋といえば、今でこそ「伝説のすた丼屋」などと、自分のことを伝説呼ばわりし、「すた丼の掟」などと店内に大書して、従業員にも画一的な接客教育を施し、外食産業にありがちな新興宗教みたいな香りをただよわせている、当世風のモダンなチェーン店である。ワタミっぽいと書こうとしたが、渡邉美樹とすた丼を一緒にしたらすた丼に名誉毀損で訴えられてしまう。
近年では高速道路のPAにまで出店しているくらいの権勢を誇るすた丼屋は、もとはといえば、国立の西の外れにある、きれいとは言えないサッポロラーメン屋さんのサイドメニューだった。「スタミナ丼」の略であるから「スタ丼」とカナで書くのが正解で、いまの「すた丼」というひらがな使いは、明らかに世の中におもねっていると言わざるを得ない。
若い頃のわたしは、バイト料が入ると隣町の国立へ出かけていき、古本屋を何店かめぐった後で、スタ丼屋の引き戸を開けるのが楽しみだった。足立太の大ごちそうのラーメンライスみたいなものだ。
バイト先に、アルバイトで食っている先輩がいた。フリーターという言葉の走りの時代だ。先輩はまだ20代はじめだったが、なにかの重い病気に罹り、国立市内の病院へ入院した。「調子がいい日はベッドを抜け出してスタ丼を食べに行っているんだぜ。」と、なぜか自慢していた。そんなことだからなかなか退院できなかったのは言うまでもない。
この先輩は音楽と映画と文学と少女漫画にかけては、おそろしく詳しかったが、ある時からプツッと音信不通になった。今ごろどこでどうしているのやら。生きていたら会いたい。「おまえの就職祝いで借りてやるよ。1万円貸してくれ。」と言って持っていったままの1万円は、返してもらわなくていいです。安心して下さい。
もうひとつ思い出した。また別の先輩は、高校柔道部の出身で、背は低いがものすごくガタイがよかった。現在もすた丼の大盛りはそこそこ盛っているが、本来のスタ丼大盛りはあんなものではない。そもそも器が、丼ではなく直径30センチくらいの「たらい」だ。
その日、腹の減っていた先輩はその「たらい」を頼んだ。山盛り満タンのメシと肉がドボーンという感じで出てくると(重量は2㎏くらいか)、ごく普通にガガッととりつき、ガガガッと一瞬で腹におさめた。
すると店員さんがほーう、という感じでこっちを見て、「お兄ちゃん、いい食いっぷりだね。今度スタ丼の早食い大会があるんだけど、出ないかい?」と言った。スカウトされていた。関係ないがこの先輩も15年くらい行方知れずになっている。そういうの多いな。
わたしが10代後半の冬のことだ。ひとりでスタ丼を食べていたら、後から若い男と女のカップルが、なんと手をつないで入店してきた。大学生だろうか。当時流行のマガジンハウスの雑誌から出てきたような、おシャレなカップルである。わたしは丼を抱えたまま、チッ。と舌打ちした。
スタ丼とは、脂身たっぷりの豚のバラ肉へ大量のニンニクをまぶして、ネギと一緒にきついタレでジャアジャアと炒めたものを、大量の白飯の上へどばっとのせ、さらにだめ押しで生卵を割りのせた、必要以上に精力過剰な、年寄りには明らかに身体に悪い食い物である。昔のスタ丼は今のソフィスケーテッドすた丼とは全然次元が違う、言ってみれば貧乏な若い男どもの「エサ」そのものだった。
もちろん国立西のスタ丼屋自体も、若いおシャレなカップルが寄り添って入ってくるようなところでは全くない。カップルは明らかに間違っていた。おろかものめらが。ここはお前たちが来られるところではないのだと、わたしはヌルヌルする丼越しにカップルを見つめ、不満いっぱいの野良犬のように(うー)と唸った。
男は、スタ丼屋が初体験ではない様子だった。むしろ自分は、この店の常連だからね、という雰囲気をかもしだしていた。傍らの長い髪の女に、(注文は僕にまかせてよ。)というような素振りを見せた。今のわたしだったら、「おい君、戦略間違ってるよ。」と突っ込んでやるところだ。
厨房のカベには脂がべったりとくっつき、半分壊れかけたような換気扇が低い音をたてて回っている。その中でガシガシと中華鍋を振っている店員さんへ、男はいかにもさわやかに声をかけた。
「スタ丼二人前ください。」
二人いる店員さんは、二人とも頭にタオルを鉢巻きに巻いていた。冬だが、もちろんTシャツ一枚だ。ボトムはデニムでもジーンズでもなく、ジーパンである。足元は白いビニール長靴に決まっている。なぜならここはスタ丼屋だから。
手前の店員さんが威勢よく叫んだ。
「あいよ、スタ丼二丁!」
するとすかさず奥の店員さんがかぶせて言った。
「スタ丼食ってなにすんだあ!?」
ゲハハハハ、と店員さんたちは二人でのけぞって、思いきり笑った。肉とニンニクを手づかみして巨大な中華鍋にぶっこんだ。ガスレンジにぶわっと炎が立ち上った。鍋の取っ手を太い腕でつかみ、ガシガシガシガシ!とよりいっそう乱暴に振り回し始めた。
ちょっと恥ずかしくなったわたしは、まだ半分以上残っている自分の丼に顔を突っ込んで、ワシワシとかきこんだ。なんとなくカップルの方を見ることができなかった。
あの学生さんのカップルは、あの後どうしただろうか。今は二人とも50歳すぎくらいのはずだ。速攻で結婚して、とっくに子どもなんかいたりするのだろうか。
スタ丼食ったから。