『フライの雑誌』第86号(2009年初秋号)〈トピックス〉より、「〈フライで釣る人〉のことを何と呼ぶか・再考」を公開します。
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〈フライで釣る人〉のことを
何と呼ぶか・再考
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本誌第56号の連載記事で、カブラー斉藤氏が「『フライで釣る人』のことを何と呼ぶか」問題を検討している。氏の舌鋒がぶったぎった呼称は、「フライマン」、「フライフィッシャーマン」、「フライフィッシャー」、「フライロッダー」、「フライアングラー」、「フライ師」だった。
個人的には、べつにフライフィッシングで魚を釣るからといって、統一的な呼ばれ方をされなければいけないことは、全くないと思う。くくられたくもない。
ただ曲がりなりにもフライフィッシング専門誌を編集する上では、呼び名があると便利だ。
フライフィッシングを知らない外部の方へフライフィッシングの魅力を説明するとき、「フライで釣る人」の傾向を、かんたんに前振りすることがしばしばある。
実際のところ、世の中には色々な釣り方がある中で、わざわざ「フライで魚を釣る人」たちには、やはり何らかの共通項があるように感じる。
理屈っぽくて七面倒くさくて、好き嫌いがはっきりしていて、細かいことにこうるさくて、ぐちぐちしつこくて…というとネガティブイメージ。
「フライで魚を釣る人」は、基本的にマジメで探究心がつよくて横にブレない。ユニークでオリジナリティにあふれていて諧謔性に富み、粗にして野だが卑ではなく、スマートでファッショナブルで好奇心旺盛、頭脳明晰・質実剛健、弱きを助け強きをくじく心の強さとたしかな実力をもち…、
とまあこんなところでどうでしょうか。
ここ数年、編集部発信の記事で「フライで釣る人」のことを指し示すときは、意図的に「フライマン」と呼んでいる。この「フライマン」という呼称は、斉藤氏によれば国分寺一門の匂いがしてすっきりしないそうだ。
だがしかし、まさに私ははるか30数年前、沢田賢一郎氏著の『フライマンの世界』(つり人社/1978年)を読んで、フライフィッシングの世界に誘われたのであるから、むしろ爽快きわまりない。
「フライマン」という呼称を誌上で使う際には、〈ライフスタイルの中軸にフライフィッシングを位置づけている人〉というニュアンスをこめているつもりだ。
これから世の中は時を追うごとに窮屈になり、どんどん混乱していくだろう。世間や周囲がどのように揺れ惑い、変わっていったとしても、自分の心のなかにただ一本、何らかの筋を通しておけば、いざ人生の岐路に立たされたときの、判断基準になる。
それは信仰でもいいし政治的な信念でもいい。家族でもいいし書物や映画の名台詞でもいい。
「宗教とフライフィッシングとのあいだに明確な境界はなかった」と書いたマクリーンのように、自分が自分であり続けることへの矜持、プライドの軸をフライフィッシングに置くのはわるくない。
それだけの信頼と価値がフライフィッシングにはある。
自分の行動はフライマン的に恥ずかしくないか。これからも充実したフライフィッシングライフを楽しみ続けるために、今どの道を選択すればいいか。そう考えればあまり失敗はしないし、失敗したとしても納得がいくのではないか。
結果的に選択を大失敗して取り返しのつかない事態に陥ったときも、「いいのだ。なぜならわたしはフライマンだから。」と、唇の端で笑ってみたい。
たとえばそこで、前記の呼称候補をあてはめていってみよう。
「なぜならわたしはフライフィッシャーマンだから。」では音が長すぎるし、「わたしはフライフィッシャーだから。」には、人生の深みがない。
「おいらフライロッダーでし。」は論外で、「わたしはフライ師なのじゃよ。」ではあきらかに方向性が違ってしまう。
ちょっといいかなと思うのは、「おいらフライアングラーだもの。」か。
「アングラー」というほぼ死語へなんとなしの親近感をもつのは、『Angling』(産報出版/1983年創刊)の呪縛から、いまだに逃れられていないからかもしれない。
そう考えてくると結局、「フライで釣る人」は「フライマン」がいいかなあ、と思う。英語圏で「フライマン」と言うと、「ハエ男」の意味がふつうとのことだが、日本語で使う分にはいたくもかゆくない。
ちなみに『フライの雑誌』の英名副題は、創刊当初から「A Magazine For Fly Fishermen」ということになっており、これまた直球というか色気がまったくない。1980年代の香りがじんわり漂ってくるネーミングだ。
英語圏の釣り人にこの副題を使って自己紹介すると、たいてい「面白くも何ともないな。」という顔をする。
「フライで釣る人」の呼称について、ぜひご意見をお寄せください。
(堀内)
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さて、上は、2009年の自分の文章だ。今より輪をかけて分かりづらい悪文だ。赤字を入れまくりたい。(少し入れた)。文中の、
これから世の中は時を追うごとに窮屈になり、どんどん混乱していくだろう。世間や周囲がどのように揺れ惑い、変わっていったとしても、自分の心のなかにただ一本、何らかの筋を通しておけば、いざ人生の岐路に立たされたときの、判断基準になる。
の箇所については、まさにこの時予測した通りに社会は進んできているようだ。この記事を書いた年、秋には政権交代があった。東日本大震災が起きるのは2年後だ。
その後の世の中の移り変わりは見ての通りで、憂いは深まるばかりだが、フライフィッシングのことを考えている時は楽しい。
2009年はこんなことを言っていたが、その後、LGBTとかいろいろな変化があって、「フライ〝マン〟」という表記で男性性に印象を限定するのはいかがなものか、と個人的に思い直した。同様の理由で「フライフィッシャー〝マン〟」も使いづらい。
そこで最近では、さしあたって「フライフィッシャー」を使用しているが、上記引用文中でカブラー斉藤氏も指摘しているように、なんとなくつり人社さんの軍門に下った感じは否めない。
というわけで、「フライで釣る人」のことを何と呼ぶかは、わたしたち「フライで釣る人」にとって永遠の大問題である。