9月29日、本誌に寄稿してくださっている荻原魚雷さんと、阿佐谷で二回目の金魚釣り。今回は滑り出しで魚雷さんが立て続けに3匹釣った。余裕かましていると負けそうだった。それはわたしの所属クラスタ上、好ましくない。途中でひそかに本気モードを投入、最終的にはきっちり差をつけておいた。むろん釣りは勝ち負けではないが、素人さんと並んで釣って、隣りが釣った匹数をまったく気にしないほどには、わたしは大人ではないのである。
魚雷さんは水面でウキが動くたび、「あっ」とそこそこの音量で声をもらす。何度も何度も「あっ」と言うのが、たいへん面白かった。自分でも無意識のうちに声が出てしまうらしい。ふだんはきわめて声の小さい人なのだが、大きな声も出るんじゃんと思った。ただ、「あっ」と言っている分、竿でアワセるタイミングが遅くなっていた。魚雷さんは、貧果に終わった前回の金魚釣りの時から、ずいぶん進歩していた。「なんか上手になってません?」と聞くと、「メガネ替えたんです。」とうれしそうに言っていた。
釣りの後は中杉通りの古書店をいっしょにめぐった。プロの選書する姿を見たいと以前から思っていた。魚雷さんは古書店の棚を上から下まで、左端から右端まで、見えない絹のはたきで撫でるように、小さな魔女が通りすぎるように、無駄なくくまなくチェックしていた。蟻さん一匹漏らさず。やはりすごい。
魚雷さんはお店すべてで、何やら本を購入し、次々に背中のリュックへ入れていた。部屋に本があふれてどうしようもない、というのは魚雷さんのエッセイの定番ムーブだが、こんなこと毎日やってれば、そりゃ本なんか増えるに決まってる。だから思わず「そりゃ本増えますよねえ!」と、お母さんのような感想を伝えておいた。お互いどんな本を買ったかはこの場合、もちろん見せあわなかった。
そのあと、中杉通りの喫茶店へ。魚雷さんはアナキズム研究家でもある。個人主義的アナキズムと新自由主義、リバタリアニズムの関連について、気になっていたことを質問した。プルードン主義の魅力と限界についてと、「おカネのないリバタリアンってもっともダメ。」の真理について、わたしの考えを聞いてもらった。最近こういう話をできる相手がまったくいないのでありがたい。いろいろ教えてもらった。
魚雷さんと初対面のとき、何かのはずみで「『テロリスト群像』が…。」とわたしが言いかけたら、「サヴィンコフ。」と魚雷さんがふつうに受けてくれたのは忘れない。なんか今日のわたしの書きっぷり、つき合いはじめたばかりの恋人のことをのろけてるみたいだ。ちょっと気持ちわるい。
そのあと、「吐夢」のカウンター、高円寺「ペリカン時代」に移動。中央線に揺られ揺られて、はるばる東京の辺境へ帰着したのは午前1時をとうにまわっていた。
ところで、WEB本の雑誌の「日常学事始」、およそまともな社会生活とは縁の薄そうな魚雷さんが書くから、よけいに面白い。