阪東幸成さんの新刊『釣り人の理由』を手にとった。
わたしが高校生のとき(と言い出す時点でおっさん臭満載の自分がつくづくいやになる。いったい何百年前の思い出を持ち出すのよ。)、立川の自宅から中央線に乗って学校へ通っていた。そのたった15分の電車通学が読書の時間だった。もともと集中力のない人間であるから、自動ドアの端っこによりかかった姿勢で、乗ってから降りるまでのあいだに読みきれる長さの短篇がちょうどよかった。人生の中で中央線のドアの横で一番本を読んだ。新潮文庫の一連のヘミングウェイの短篇は繰り返し読んだ。今でも訳文を(とくに会話は)けっこう暗誦できる。原文でも読もうと思ってペーパーバックを買ったけれど1ページももたなかった。
『釣り人の理由』所載、「ヘミングウェイ巡礼」の語り手の「わたし」=マサシ(阪東さんではない。あくまでも。)は、大学一年生の時に文藝雑誌の新人賞に応募して最終選考に残ったものの、選評委員に酷評されて心が折れ、ついでに筆まで折った、今は普通のサラリーマンである。小説を「書こうと思うことは二度となかった。」と断言して、親戚のコネで外資系のメーカーへ就職してアメリカへ駐在している。老成したようなことを言っているわりには、まだ三〇代らしい。おまえ若いじゃんと思う。
そのマサシが、学生時代に原文で読み込んでいたヘミングウェイの面影を追うようにして、ミシガンの川へフライフィッシングに出かける。そこでマイクという、今年大学を卒業予定の若者の釣り人と出会って、一緒にフライフィッシングをする。
マイクはマサシと同じく、ヘミングウェイ・マニヤだ。夜のキャンプサイトで「心が二つある大きな川」におけるヘミングウェイの書きっぷりを時系列で分析して、ああじゃない、こうじゃないと盛り上がる。しかしマイクがあまりに細かいところにしつこい。そこでマサシが「小説家にでもなるつもりなのかい?」とからかうと、マイクは「じつはアイオワ大学の創作科に入りなおそうと思ってるんだ。」と告白するのだった。マサシによると「米国の小説家志望者にとって憧れのアイオワ大学創作科」ということのようだ。逆に、マサシを同年代と思い込んでいるマイクから「マサシは何を目指しているんだい?」と聞かれ、返事に窮するマサシの背中を引いて物語は終わる。
自分の小説処女作を酷評されたくらいで心が折れ、筆まで折ったマサシだから、マイクのまっすぐな問いに対応できない。そこでマサシが、「いやあ、おれも若いころは新人賞の最終選考まで残ったことだってあるんだぜ。すごいだろうが。選考委員がバカばっかりで小説が書けへんのや。」くらいのことを言えるようになるのには、あと300年くらいかかる。小説が書けないなんて悩みは、釣り師が魚が釣れないことに比べたら全然大したことではない。永沢光雄さんの「声をなくして」はいい本だったが、本人が「小説を書けない。」と言って呻吟するところは興ざめだった。マサシは釣りはうまいみたいだから十分幸せだ。
一方、大学の創作科で小説を学びたいというほどに性根が体制的なマイクは、立派な葛西善蔵にはならないだろう。誰もが葛西善蔵にならなくていいのは当然だ。というか葛西善蔵がそんなにたくさんいたら酒屋が困る。川辺へやって来たときのニック・アダムスが抱えていた虚無はあまりに深かった。川を離れるときのニックは虚無以上の希望を川からもらったのが分かるから、「心が二つある大きな川」は今でも読み継がれている。小説が書けないとか大学へ入り直してどうこうなんて虚無が笑う。
マサシとマイクが川で初めて出会って、いっしょにフライフィッシングをする。このあたりの釣りの描写は、ホンモノのいかれたフライフィッシャーでなければ書けない。フライフィッシングをやらない読み手にどこまで通じるのか分からないがいい感じだ。わざわざアメリカへ行ってまでフライフィッシングをする日本人のストレンジャー的な自己認識は、阪東さんがまとめたルポルタージュの名著『アメリカの竹竿職人たち』の行間にも表出していた、書き手と対象とのもどかしい距離感に通じるものがある。彼と我ははなから同じ土俵に立っていない。そもそもアメリカに土俵はない。
巻末の書き下ろし「鼬(イタチ)の恩返し」がよかった。
あとでまた読み返します。
(堀内)
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