フライの雑誌-第117号特集◎リリース釣り場より、「リリース雑感」(水口憲哉)を公開します。ブラックバスのキャッチ・アンド・リリース禁止騒動に内水面漁場管理委員の立場で関わった水口氏は、釣った魚をリリースする行為について、本心ではどう考えるのか。オイカワ/カワムツ釣り、イシダイ釣り、海フライ、島崎憲司郎「水生昆虫アルバム」の一節も引用して、興味の先は縦横無尽に広がります。(編)
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リリース雑感
水口憲哉(東京海洋大学名誉教授・資源維持研究所主宰)
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私は釣りが好きではなく下手である。それなのになぜ本誌創刊号で、シリーズ〝日本釣り場論①〟のゲストとして〝やせがまんが日本の釣り場を救う〟に登場し、現在も〈釣り場時評〉を書き続けているのか。
釣りが好きではなく下手な理由の一つとして、手先が不器用で、運動音痴ということがある。鈎に糸を結ぶことも満足に出来ず、フライタイイングなんぞトンデモないことである。小学校で、鉄棒の逆上がりが出来ず、大変苦労したものである。なお本当の音痴であるが、これは釣りには関係ないであろう。
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そんな私でも子供時代に貴重な釣りの体験をしている。新宿育ちで、近くに子供だけで行ける釣り場もなく、新宿御苑に潜り込んで、スルメを餌にザリガニを釣ったことがある。大沢在昌の「新宿鮫」を読みながら思い出した。
もう一つは、西大久保の自宅の向かい側に住む菊地のおじいさんにハゼの乗合いに連れていってもらったことである。横綱会のメンバーだった、品の良い人だった。今は無いこの会は、江戸の釣り好きの旦那衆でつくる名人の集まりで、本が一冊書けるくらいの貴重な体験をしているのだが、これ以上のことは全く思い出せない。
その後、釣りにハマるということもなく、必要に迫られやった釣りは数えきれないほどある。ただ雑魚すくいなどの魚獲りは大好きである。小学生の夏休み父の生家に行き、用水路で魚獲りをしたのは線路に釘を置きナイフをつくったのと共に忘れられない。なお、新宿でもこのナイフづくりは都電でやった。その十五年後に東京の秋川西秋留での瀬替え(流れを変更して川の動物の全獲り)による調査(池のかいぼりと同じこと)も面白かった。
三・一一後、家の周りの水路で子供達と胴長をはいてタナゴやメダカをすくうことは何度かやった。その面白さの極致が、漁船に乗せてもらって網揚げなどを見ることである。
そんな筆者が書いた『釣りと魚の科学』のあとがきでは、潜水観察で最初に魚に接してしまったためかあまり釣りをしないともほざいている。
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このように釣りをしない、好きではないという人間が『釣りと魚の科学』を書くことの不思議についてここで整理してみる。
いきさつは今は亡き釣り雑誌「フィッシング」に「釣魚春秋」「行動よりみた魚類の生態」、そしていくつかの読みものを書いたことから始まる。
大学院時代に先輩の安田富士郎さんが書いていた釣魚春秋の淡水魚を分担しないかということから同誌編集部とつながりが出来、調べて考えてまとめることの面白さを、サケの回遊やタナゴの産卵で経験したのを今でもはっきり覚えている。その面白さもあったが、一九六九年から七二年にかけての生涯で最も金の無いことの大変さを味わわされた時期における原稿料収入は有り難かった。
これらのいくつかの連載を、魚の人口、魚の食生活、魚の行動、魚の生い立ち、魚・水・人の五章にまとめて『釣りと魚の科学』として、一九七四年産報出版レジャー選書として出した。
第五章中の「釣り堀化か自然化か」は今読んでも古くはなく、この時点でブラックバスのゾーニング的な考え方を提案している。そして、この第五章的なことを本誌の〈釣り場時評〉では書き続けている訳である。
なお、この本に収録されなかった「漁業者の川から釣り人の川へ」が、単行本『魔魚狩り』に唯一本誌以外に一九七二年に「フィッシング」誌に書いたものとして収録されている。
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『釣りと魚の科学』は類書があまりなかったこともあってよく売れた。新幹線のキオスクにあったと教えてくれる人もいた。手元に今ある一九八二年発行のものは十三刷りである。
そして一九八六年の暮れに、本誌初代発行人中沢孝さんが、研究室に、神田の古書店でさがした『釣りと魚の科学』と『フライフィッシング・ジャーナル 六号 一九八四年夏』を持って訪ねてこられた。この雑誌にFF同人二一人の一人として、中沢さんはニッポン釣り場事情と、ある水産技師の回想として谷崎正生さんに戦前・戦後のニジマス事情を熱く語ってもらう十ページを書いている。小さな字で情報が大量に詰め込まれているのに驚いた。
そして翌年本誌創刊・初夏号の発行となる。同号には「’87 フライフィッシャーマン」として島崎憲司郎さんが、「フライの雑誌・人物図鑑漁民とともに原発に反対する水産資源学者」として水口憲哉が、共にグループサウンズのメンバーのような顔で出ている。
筆者は子供のころ水憲と呼ばれていたが、以降島崎さんのことも島憲と呼ばせてもらう。
水憲のこの紹介の仕方は、前年にチェルノブイリ原発事故があり、その三ヶ月後に出された拙著『反生態学 魚と水と人を見つめて』の著者略歴に『釣りと魚の科学』と『反原発事典Ⅱ(共著)』が著書とあることのおかしさに中沢さんが関心をもったことが理由かもしれない。そのおかしさというかアンバランスは、フライの雑誌社から水憲が『桜鱒の棲む川』と『淡水魚の放射能』を出すことで今も続いている。
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それはそれとして、ここで必要に迫られてやった数え切れないほどの釣りの話にもどる。
それはオイカワとカワムツの釣りである。
オイカワは全国各地の河川や湖沼ごとに一〇〇個体は欲しいので地元の漁協の方に採集をお願いすることが多かった。最上川のダムの魚道をせき止めて獲ってもらった時はサクラマスも獲れたりした。また兵庫県の揖保川では、川の中に糠の団子を置き笹を立て、素足で近寄り投網で一網打尽という名人技にはドギモをぬかれた。
カワムツの場合は二型の分布状態を知るためだったので十個体ほどあればよく、全国を旅する途中で暇を盗んではカワムツ釣りをした。ミミズを持ってゆくこともあるが、コンビニの弁当のソーセージなどでもよく釣れた。六本つなぎの三〇センチほどの竿を常にリュックの中に入れ、空港からタクシーでちょこっとということもあった。北京ではそうやったが全く釣れなかった。大分では、大の大人が何やっているんだと馬鹿にされた。
これらはみな研究材料採集の釣りなので、すべて十パーセントホルマリン溶液に漬けて持ち帰る。
もちろん食材調達の釣りもやっている。外房太東漁港でサヨリの若いのをサビキで釣り干物にしたりキスの天ぷらを楽しむこともある。ピースボートの旅で、乗船待ちのフィジーで、カツオのトローリングをやったり、サンゴ礁で釣った魚を塩煮にしたこともある。
このように、水憲の釣りは研究材料採集や食料調達のためなので、C&Rとは全く縁が無い。そんな中で、唯一釣ったオイカワをリリースしたことがある。それも調査研究のためではあるが。
その調査は、オイカワの背ビレの基部にビニール小片をつけた鈎をかけ放流し、釣り人に再捕を報告してもらうというものであった。
秋川で放流後、川沿いに釣り人一人一人に標識オイカワの有無と釣りをした場所と釣獲数を記入する宛先印刷済みのハガキを渡した。結果は返送ゼロで大失敗であった。理由は少なくとも三つある。
①オイカワは弱い魚なので、標識が脱落したり、死亡した魚の割合が高かったかもしれない。②一人で釣って放流したので個体数が多くない。③クリールセンサス(ビクのぞき調査)的な調査は本来難しいのに雑魚券を買っている人はほとんどいなかったのではないかと今ならわかる。
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それはそれとして、ここからイシダイのT&R(タグ・アンド・リリース)に話は移り、本題のC&Rの検討にゆく。
イシダイについては一九七〇年代から一九八四年にかけての四つの標識放流(T&R)調査により渡り群の移動についての仮説が浮かび上がってきた。
まず北から太東漁協青年研究会が七七年から七九年にかけて一五六〇尾放流した。次いで相模湾奥で神奈川県水試相模湾分場が七六年から八一年にかけて一〇八一尾、そして伊豆半島では七二年から七五年に静岡水試伊豆分場が一〇三九尾、ずっと南の大分県水試が豊後水道で一四九〇尾放流したその結果、未成魚はほとんど移動しないが、三歳以上の成魚は一月から五月にかけて南下移動し、より南の定置網で再捕されることがわかった。
そこで、一九八五年の一月から五月までの千葉県鴨川から鹿児島県まで定置網でのイシダイの日別漁獲量を調べることにより、一つの群が一日二四キロの速度で五〇メートル水深を南下移動することを確かめた。そこで、一九八七年五月のJGFAの第一回タグ&リリースセミナーにおいて、イシダイは大きく移動しているので、釣り過ぎという心配はしなくてもよいです、と話した。
しかし、それから毎年行なわれたT&Rの結果を二〇〇八年にまとめて検討したところ、磯釣りで釣られているイシダイの大ものは殆ど移動していないことがわかった。
これはどういうことかというと、磯釣りでは島や半島部に一生定着し、産卵もその近くでする地着きと考えられるものを釣っており、定置網では四歳、一キロ三五センチ位になった成魚が鹿児島まで産卵のために南下移動するものすなわち渡りと考えられるものを漁獲している。
そのことを証明するような再捕結果が二〇〇八年に起こっている。外房白浜で山崎幸雄さんがタグをしてリリースしたイシダイが四八六日後の十二月九日に徳島県鞆浦の定置網で再捕されたというもので、三歳までの地着きと渡りが混棲する外房で渡りの未成魚をリリースしたと考えられる。
それはさておき、大きくなっても殆ど移動しない地着きのイシダイは、同じ釣り人が複数回C&Rしている例があることもわかってきた。カリフォルニアやオーストラリアのヒラマサでも地着きと渡りがあり、地着きでは同様のことがあると報告されている。
地着きと渡りがあることはアオウミガメ、ミナミバンドウイルカ、シャチなどでも明らかになっている。シャチやイルカではタグを付けなくても背ビレの模様や傷跡の変色等で個体識別をして名前をつけたりもしている。そして何回も出合ったり、連続観察を続けたりして一生の生活史を目視で確認していたりする。
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広い海ですらこのようなことが起こっているので、活動範囲が限られた池や川のそれほど多くない個体数の魚についてC&Rをやり続ければ、同一個体の魚が複数回C&Rされるということが起こる。
これはある意味魚の使い回しではないかと堀内編集人に話したところ、『水生昆虫アルバム』で島憲はそれを連続暴行魔と言っていると教えてくれた。確かに十四ページに「キャッチ&リリースも残念ながら免罪符にはならない。魚に言わせれば連続暴行魔と大差なかろう。」とある。
そこで、この使い回しと連続暴行魔について比較検討する。「フライロッドを手にして魚や川虫と戯れる」釣りに親しんで四〇数年の島憲。フライの職人としてはただひたすら魚に食いついてもらうことを切望している。あこがれの人が気にかけて声をかけることを恋い願っている少女や少年のように。
食いつかれることは願ってはいるが、食いついて釣れてしまうと困ってしまうナイーブな職人。またフライをつくることは、脚本をつくって舞台にのせるようなもの。役者(魚)がどう演じ対応するかで芝居は決まる。
島憲は水生昆虫に変化し、身をやつすのが釣りだと考える。そのことと関連してマッチ・ザ・ハッチも考えている。そして、マッチ・ザ・ハッチはある意味便乗犯であるとも言っている。これは羽化にロマンを感じ、羽化登仙や天女の羽衣を連想し、羽衣を隠した天女に恋する男のような後ろめたさを感じて、便乗犯という言い方をしてしまうのかもしれない。
それに対して水憲は、マッチ・ザ・ハッチも含めて、釣りはT(時)、P(所)、O(出合い)だと、釣りと全く関係ないことについても言える、身も蓋もない無味乾燥な言い方をしている。なんと情がなく思い入れのないことよ。
そんなことを考えていると、ウイリアム・タプリーのミステリーを読んでいた連れ合いが弁護士コインの気炎を教えてくれた。
「ぼくはスポーツマンだから、べつの日にべつの釣り人がチャレンジできるように、釣った魚は無傷のまま水に帰してやる。」
水憲はコインがニジマス狙いに使うライト・カヒルが全く分からないのと同じように、このスポーツマンうんぬんというのもよく分からない。島憲はそれが釣り人に広くみられる、ひとりよがりであり、カッコツケしいであることが分かっているので、残念ながら免罪符にはならないと言っている。
水憲はブラックバスの場合、事実にもとづき、リリースは確実に一割ずつ殺す行為であると言い放つので、リリ禁(リリース禁止)をいう人、バサー両方から鼻白まれる。
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ここで、リリ禁の論理を考えてみる。C&Rは使い回しや連続暴行魔というみなし方に見られる魚への虐待だから止めろというのでなく、ブラックバスはこの水域に居てはならない存在だから釣ったら殺してしまえ、というのも犬猫の殺処分と同じことで、動物の福祉うんぬん以前の外道の世界である。
水憲は人間に関心があり魚や釣りが特に好きなわけではない。魚がいとしいということでもない。使い回しという言い方は魚をモノとして見ている。惚れるというのではなく、もて遊ぶということになってしまう。
釣りをやらないということは釣りがわからない不感症なのかもしれない。島憲は釣りが好きで、魚に人を見ているのかもしれない。それも女性のように。それゆえリリースする釣り人に対して連続暴行魔という見立てがでてくる。
リリースされる魚、使い回される魚にとっては、それは休み休みの輪姦とも言えよう。C&Rの管理釣り場となると、それは山本周五郎の「つゆのひぬま」佃町通称あひるの蔦屋の世界である。自由に泳ぎまわるイシダイやヒラマサの世界はどうなのか。
ところで海フライの中馬さんは、釣ったカマスをていねいにつくって人に食べてもらう。島憲は釣った魚を放しているのか、食べているのか、そうか腹を割くか。
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