フライの雑誌-第124号(2022)から、〈水辺のアルバム21〉小笠原の漁業の夢|若い漁業者でにぎわう父島と母島(水口憲哉)を公開します。
summary
●東京都小笠原村は、特異な別天地である。
●ほぼ同緯度の沖縄と小笠原で漁業技術の相互交換が行われ、それぞれが水揚げを増加させた。
●小笠原の島民は、観光客と同じ「都会的」自然観を持っている。漁業者の年齢構成は、驚異的に若い。
●小笠原の〝漁村〟では、国家でも村落共同体でもない、新たな集団による漁業管理が行われ出している。
水辺のアルバム21
小笠原の漁業の夢|
若い漁業者でにぎわう父島と母島
水口憲哉
(東京海洋大学名誉教授・資源維持研究所主宰)
フライの雑誌-第124号(2022年発行)掲載
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●特異な別天地
それまでの欧米の捕鯨船にボーニンアイランド(Bonin Islands)と呼ばれていた無人島の集まりである小笠原諸島に、一八三〇年ハワイのサンドウィッチ島からナサニエル・セボリーら五人のヨーロッパ人と、二〇人のハワイ人からなる入植者が父島にやって来た。
これを成り立ちとする現在の東京都小笠原村は、次のような特徴を持つ特異な別天地と言える。
一)日本で唯一、欧米系先住民の暮らす島。
二)風土的に沖縄や南太平洋のミクロネシアと似ている。ただし獲れる動物や繁茂する植物はそうであるが、そこに住む人々の祖先はと言えば、沖縄は本誌一一九号でも紹介したように少なくとも二万三千年前からであり、マリアナ諸島などミクロネシアについてはわからないところも多いが、沖縄とほぼ同じ頃と考えて良い。
三)現代のエコツーリズムへの島民(村民)の反応を見ても昔からの漁村が示すものではなく都市の一部の住民として対応している。そもそも漁村というものが小笠原には存在するのか。
四)若い新住民による漁業もさかんで、村と漁業地区の子供のにぎわいが今号5ページの表に見られるように全国的に見てもダントツに大きい。
これら四つの特異な点を抜きにして、小笠原村の漁業の現況は理解できない。それは、現在の小笠原村の漁業者のルーツが五つからなることと関係しているが、それは後に述べるとして、まず一番の先住者というか原住民とも言えるアオウミガメについて。
日本で数少ないアオウミガメが産卵上陸する浜が小笠原諸島には多数ある。ふ化した稚ガメは島を離れて成長し、二〇〜三〇年で成熟し産卵のために島にもどって来るのであるが、島のまわりを離れずに越冬する地着きのアオウミガメがいると筆者は考えている。
このアオウミガメを小笠原ではウェントル(ウィンター・タートル)と呼んでいる。ウェントルについて二〇〇三年一一月に教えて頂いたこと。
①ウェントルは一年中いた。一〇月から二月にも大きいのが獲れた。戦前は一年中獲った。二尺ないウェントルを獲ったらカヌーから何からすべて没収された。米軍の時代は産卵上陸ガメは獲らせなかった。また、ウェントルもタイマイも獲っては駄目だった。(セボリ信一さん八四歳、ナサニエル・セボリー氏の四代目)
②米軍占領時代は、卵や産卵上陸ガメは獲ることができなかった。ウェントルはよかったので食べ物も少なく、よく獲って食べた。ウェントルの地着き(大ウェントル)はここで産卵している。(ピンク・ドルフィンの南スタンレー船長)
③大ウェントルは二〇〇kgでも未成熟。母島に多くいたが、人々が住み始めてわっと獲っていなくなった。(東京都水産センターの木村ジョンソンさん。小チャーリーと呼ばれたチャールス・ワシントンの孫。本誌一一九号でもイシダイについて教えを受けた。)
●放射性廃棄物の海洋投棄反対運動
一九四四年軍事下の小笠原では住民が全員強制移住の命令下離島した。しかし、欧米系先住民だけは米軍が帰島を許可した。米軍統治下の小笠原は一九六八年、沖縄は一九七二年、日本に復帰した。その際小笠原諸島については非核三原則が本土並みに適用された。
佐藤首相は国会で「白紙」を繰り返していた沖縄については、日米間で「極めて重大な緊急事態」では事前協議を経て沖縄への核持ち込みを認める密約を結んでいたことが現在では明らかになっている。
復帰五〇年の今年、沖縄県では新型コロナウイルス感染に対して特別措置法に基づき「まん延防止等重点措置」が山口県、広島県と共に一月九日に適用された。
在日米軍基地が日米地位協定のぬけ穴となっており、新型コロナウイルスのオミクロン株が米国から日本に持ち込まれていることが原因なのは明らかなので、日米地位協定による特措法がらみで種々の対応が取られ始めた。
一九九一年から小笠原村の硫黄島航空基地で、米海軍の陸上空母離着陸訓練(FCLP)が行われている。この訓練を鹿児島県馬毛島で行うための自衛隊基地づくりを現在防衛省は強行している。
筆者が小笠原・父島を初めて訪れたのは一九八〇年一一月、放射性廃棄物の海洋投棄反対で島がわき立っている時である。漁民アパートの一室で漁網のつくろいをする菊池滋夫漁協組合長からいろいろ話をうかがい、島ずしをごちそうになった。
同年九月三〇日に村議会が絶対反対の決議を行い、一〇月中旬には議長や菊池さん達が国に反対陳情を行っている。漁民をはじめ、小笠原が好きで住み着いている二〇歳前後の若者も「海を守る会」をつくり、マリアナ同盟からの呼びかけを「グアムからの手紙」として父島の七〇〇戸に全戸ビラ入れをしている。
実はこの海洋投棄反対の運動は日本でより、バヌアツ、北マリアナ連邦、グアム、テニアンをはじめとする南太平洋諸国での反響が大きかった。それゆえ一九八五年、当時の中曽根康弘首相が太平洋諸国歴訪にあたり、関係国の懸念を無視して海洋処分を行う意図はないと言明せざるを得なかった。
なお、二〇一六年に亡くなられた菊池滋夫小笠原漁協組合長は二〇一五年まで二一年間東京都漁業協同組合連合会の会長をやっておられた。
●沖縄との漁業技術の交換
一九九四年、小笠原とほぼ同緯度の沖縄で、冬期にソデイカ漁が活況だとの情報から、漁業者グループが村の補助を得て視察した。
漁獲量の減少する冬に、比較的小型の漁船で操業可能なためすぐにほぼ全船が着業することになり、いきなりその年に一四・八t、一六九二万円を水揚げした。その漁の水深五〇〇m以深でイカが食害されたり、大型のメバチマグロやメカジキがかかってきたのである。そこで同じ深海縦縄漁ではあるが、漁具をエギからリング式仕掛けに替えたことにより、小笠原式マグロ・カジキ深海縦縄漁が開発され、定着した。
父島では一九九七年にカジキ類として六六t、六千万円の水揚げとなった。そして以後二〇〇八年の一七八t、一億九千万円(総水揚げ金額の四七・四%)の山を経て、二〇一七年には二億円に達した。母島でも二〇〇六年には一億七千五百万円(八〇・九%)になった。
この技術改良は、ソデイカ漁の定着している沖縄では初期投資が殆どかからず導入できるので糸満式メカジキ輪っか漁法として取り入れられた。このような漁業技術の相互交換によってそれぞれが水揚げを増加させた例は大変珍しい。
小笠原では宝石サンゴ漁が一九四〇年代前半(大正末から昭和初期)に主要産業となりブームが起きた。沖縄から新たにサンゴ目的で二人、三人と渡島してきたが、日本で現在もサンゴが採取されているのは沖縄、小笠原、高知、長崎、鹿児島である。
「東京都の水産」によれば、母島近海を主に一九七六年一〇八kg、九一三万円、一九九一年九kg、六九四万円、二〇〇〇年四kg、八一万円と散発的に時々小さな山を作って採取されてきた。しかし、単価の上昇と共に中国はワシントン条約がらみで採取を禁止したため、密漁船が小笠原近海に侵入し始め、最大時の二〇一四年一〇月三〇日には二一二隻が確認されている。
政府や都の漁業取締りも厳しくなり、翌年から小笠原の採取量がそれまでの五倍の一二一kgとなった。kg当たり単価も一七七万円となり母島漁協の総販売金額の六三%を占めるようになった。二〇一四年の一都四県の宝石サンゴ漁についての知事許可件数は三七二で、近年の年間漁獲量は三〜四tと言われている。
サンゴ漁は水深二〇〇m前後の領海内で行われ、数百年、数千年、いや数万年前から生息しているものをサンゴ網でからめ取る漁であり、金鉱探しと同じところもある。さがすのが非常に困難であり、一度採取してしまったら再生するとしても小さいもので百年位かかる。
●「都会的」自然観を持つ島民
筆者は二〇〇三年(平成十五年度)に東京都より御蔵島周辺海域利用調整に関する調査委託を受けた。エコツーリズムへの対応ということで、御蔵島海域でのドルフィン・スイミングと小笠原・父島でのホエール・ウォッチング等の調査を行った。この時には御蔵島のドルフィン・スイミング船全隻に乗船したり、小笠原ではピンク・ドルフィン号に一日乗船しているがその詳細にはふれない。
ただその折に感じたエコツーリズムへの小笠原村民の対応について、古村学(二〇一五)「離島エコツーリズムの社会学」がよく整理し見切っていると思うのでその要旨を紹介する。
小笠原諸島は、日本のエコツーリズム発祥の地とされることもあるが、「離島性」の異常な高さが影響し、「観光依存度」が非常に高い地域になっている。現在の小笠原社会は一九六八年の本土復帰から始まったと考えることもできる。島で生まれ育った人よりも、都会からの移住者や、国や都の任期付きの公務員のほうが圧倒的に多くなっている。
都会出身の人が多いため「都会的」な社会を形成しており、シマ共同体といったものが存在しない。そして島民も観光客と同じ「都会的」自然観を持っている。
小笠原村におけるこの一九〇年の漁業関係者は五グループに分けられる。
⑴最初に述べた欧米系先住民をルーツに持つ人々。敗戦後すぐに帰島を認められ米軍統括下の二三年間と復帰後を島で過ごしている一二四人の人々とその子孫。そのかなりの部分が漁業を営んでいる。復帰直後の一九六八年に設立の小笠原島漁協の〝五〇年の歩み〟にある役員履歴表でもナサニョル・セーボレーをはじめ四名の名前が見られる。また同書中の二〇一八年の組合員名簿に正組合員で上部ヘンリー、準組合員で木村ジョンソンの名がある。
⑵明治九年頃から主に八丈島や大島等から移住した人々をルーツに持つ人々。
⑶上原秀明(一九八九)によれば、一九一五年(大正四)には、伊豆七島から南下した二七人の糸満からの出稼ぎ漁民が移住している。ウメイロ、シマムロ等を漁獲する追込網漁と、カツオ漁に従事する彼等の登場によって小笠原の漁業は長足の進歩を見たという。横浜・東京市場への鮮魚の冷蔵輸送を開始し、マグロはえ縄漁への餌料供給も行ったという。戦前に小笠原諸島に在住していた沖縄県人は、「小笠原引揚者実態調査票綴」によれば八九人であり、うち四二人が漁業に従事していた。また、戦前の父島漁業組合では糸満漁民の約三分の一(一四人)が組合員になっている。
⑷復帰後の帰島漁民。一九四四年軍事基地化した小笠原諸島から軍により住民は強制退去させられた。復帰後一九八〇年からの二代目漁協組合長となる菊池滋夫さんは戦前の硫黄島村出身で帰島前は本土で大手建設会社に勤めていた。二〇数年のブランクがあるので帰島漁民といっても漁業を復興するのは大変な苦労であった。
⑸一九八〇年前後より、新しく本土から来て漁業に取り組む若者もいたが、村が積極的に役場をはじめ村内の各職場への若者参加を呼びかけたこともあり、一九九七年六月末現在の驚くべき結果となった。小笠原島漁協三〇年史によれば、漁業者の年齢構成で四〇歳以下が五四%と全国の二一%に比べて驚異的である。
そのようになるまでは島外からやってくる漁業後継者志望の若者の歩留りは一〇%であったが、一九七五年から八八年までの間に四五人の優秀後継者が生まれるということもあった。そして先の〝五〇年の歩み〟中の「漁協の未来を語る小笠原の次代を担う若年漁師座談会」の五人の出席者は皆島外の首都圏出身の船主である。平均年齢四〇歳。
●小笠原には夢がある
小笠原島漁協の設立には、一九八八年発行の三〇年史によれば、一九六八年米国大使館漁業官アトキンソン氏から水産庁に対して小笠原諸島が返還された際に、現地の欧米系在来島民の生活の安定を図るために、帰島する漁業者との間に協同組合を設立するようにとの要望が出されたことが助け舟になった。
同年六月に返還式典に出席のため渡島した美濃部知事も協力し、帰島組合員五八名が帰島を始めた九月三〇日に設立が認可された。正組合員七六名、準組合員三一名での旅立ちであった。
一九七四年正組合員二二名、準組合員二名で母島支部が発足し、一九八〇年には小笠原母島漁業協同組合として分離発足した。先に述べたように両漁協とも漁業後継者の育成に村とともに努力した。二〇一九年現在、父島・小笠原島漁協の正組合員四四、準組合員四、小笠原母島漁協の正組合員二五、準組合員五である。
小笠原島漁協として「東京都の水産」に漁獲金額がある一九七二年には六二五九万円で始まっている。一九七五年支所ができてからは父島七五六七万円、母島二三〇〇万円で、以後一九八六年父島二億円、母島一億一五七八万円となり、二〇〇七年には父島四億円、母島二億三七一〇万円となる。そして父島は二〇一六年に四億六七四五万円、母島は二〇一五年に三億四〇〇八万円の最高値を示す。
この過程で水揚げ金額の多くを占める魚種は、父島では底魚一本釣りのハマダイ、曳き縄のマグロ類、そして再び深海縦縄のカジキ類と移り変わり、二〇〇七年以後はカジキ類が四〇%以上を占める。母島も父島と同様にハマダイ、マグロ類、カジキ類と移り変わるのだがカジキ類の占有率が二〇〇六年八一%、二〇〇七年八〇%と異常である。そして二〇一五年からはサンゴが六〇%を超え続ける。メカジキはこれまで存在していたが利用していなかっただけである。
神津島での突きん棒漁のように、大目流し網という大規模漁業による乱獲の心配もない。新規漁法による未利用資源の開発という可能性というか、夢が小笠原の漁業にはある。
後述するように、小笠原は日本の漁業の伝統と全く関係ないかというと、そうとばかりも言えない。宝石サンゴというのは中国の富裕層を市場としている。これは江戸時代の俵物と同じことである。
●新しい〝漁村〟の誕生へ
今号釣り場時評で東京都の島しょ部五町村およびその漁業地区の子供のにぎわい等を比較した。
二〇一八年の小笠原村では、子供のにぎわいが漁業地区のちょうど半分という結果を示している。これは漁協別に見ると、一九七三年の農林水産省による漁業センサスでは父島〇・一六五、母島〇・一四三と、その当時では普通以下であった。
しかし父島は一九九八年の〇・五一四をピークに最近一〇年間は平均〇・三五三と高止まりで落ち着いている。しかし、母島は漁業センサス毎に少しずつ数値をあげて二〇一八年には〇・五三八に達した。この高水準は二〇一五年以後のサンゴブームも手伝って、しばらく維持されるのではないだろうか。
二〇一三年の漁業センサス以来の子供のにぎわいの急激な増加と、〇・五を超える子供のにぎわい度という現象は、前号で取り上げた渡嘉敷島でも見られ、内容は異なる何かが起こっているのかもしれない。
水産庁の故浜本幸生さんは「北海道と沖縄は、日本の漁業制度を考える場合に、本州から九州にかけてとは全く違う地域と考えたほうがよい。」と言われていた。そういうことで言えば、小笠原はそれらとも全く異なる。
北海道と沖縄では、本州から九州で江戸時代から行われていた沿岸域利用(管理)の仕方が存在せず、明治に入っていきなり国家の統治(管理)が始まった。そのようなことが小笠原では一九六八年の米軍からの返還以来、ゆるやかな漁業制度として行われている。
都市の個人的な消費文化に対して、農村の生産文化は、団体性を発足点としているという早川孝太郎(一九四一)の農本主義的見方がある。
エコツーリズムが成功している地域について藻谷浩介(二〇〇七)の言う〝地域の風土に根ざした住まい方や食など独自の生活文化を、個人客が分かりやすく体験できる〟ということと、この見方との関係に小笠原の〝漁村〟の在り様を解くカギがある。それは〝漁村〟の成り立ちに都市からの新住民達の寄与が大きいということである。
国家でも村落共同体でもない、新たな人々の集団による漁業管理が行われ出している〝漁村〟を参考にして、これからの沿岸漁業と漁村の関係を考えることが必要なのかもしれない。
(了)
…
フライの雑誌 124号大特集 3、4、5月は春祭り
北海道から沖縄まで、
毎年楽しみな春の釣りと、
その時使うフライ
ずっと春だったらいいのに!