リアルなロマン|『許されざるもの』(樋口明雄著)レビュー

樋口明雄氏の話題の新刊『許されざるもの』について。第12回大藪春彦賞と第27回日本冒険小説協会大賞をダブル受賞した、傑作『約束の地』の公式続編と聞いていたので大いに期待していた。

オビ文には

これはロマンではない。リアルだ。絶滅したオオカミを野に放て! 情熱だけでは成功しない一大プロジェクトが幕を開ける。人と自然の関係が生み出す圧巻のドラマ。

とある。小難しそうな印象を受けた。

シカやサルによる農作物への食害が問題となっていることは、わたしも知っている。もともと日本の野山ではニホンオオカミが食物連鎖の頂点に君臨し、野生鳥獣の個体数の調整弁となっていた。そのオオカミを絶滅させたのはむろん人間の乱開発による圧力だ。人間が絶滅させたオオカミを現代の中国から移入して、日本の森へ復活させる。オオカミ導入で本来の自然界のバランスを取り戻せば、農作物への被害も防ぐこともできる、と「オオカミ導入派」の学者は物語のなかで熱く語る。

外来種排斥が叫ばれているご時世でこのような荒唐無稽なプランが通るはずはない。本書の冒頭部、オオカミ導入計画住民説明会での14ページにわたる緻密な論理を読むと、オオカミ復活いいじゃん、なるほどOK、とつい思わせられる。でもすぐに、いやいやそんなばなかと打ち消す。そのあたりの読者の揺れは、南アルプスに長年暮らして自らも幾多の山を歩き、人と自然との距離感を実体験的に悉知している作者の樋口明雄氏には、ぜんぶお見通しのようだ。

本書の登場人物たちは「人間の勝手な思惑で」という表現をことあるごとに口にする。突いてほしいツボを、次々にツン・ツンと突いてもらえるのは、たいへん気持ちがいいことである。最初の20ページを読んだら、あとはページを繰る手が止まらないだろう。あえて言うなら、本作のオビコピーは[これはリアルなロマンだ。]でいい。ロマンだけでも、リアルだけでもない。どちらか片方の要素しかない小説なら、こんなにも引き込まれることはないだろう。

人の通わぬ中国奥地の大興安嶺と標高2000メートルの新雪の八ヶ岳をまたいで、人と野生動物と国家の思惑をのみこんだ壮大な物語が、縦横無尽に展開する。山岳小説の大家である樋口明雄氏の熟練の筆致が、じめじめしたくそ暑い東京の西の外れに自分がいる現実をしばし忘れさせてくれた。

物語の背景は重層的で、社会へ深く斬り込む視点と切迫した提言力もある作品だが、読後感はこれ以上なくスカッとしている。そのスカッと感が本のページを閉じた後も持続するのが樋口作品の特徴だ。まるで初夏の高原のような爽快感。読者は自分の濁りきったコールタールのような内面が、主人公・七倉航の長女で、ある特殊な能力をもった13歳の七倉羽純の双眸に見透かされ、瞬間にしてまっさらに初期化されるヨロコビを感じるだろう。腐ったリンゴはよい小説に触れることでもとに戻る。こともある。

ちなみにわたしはまだ10ページ目、人間たちに虐待され傷ついて暴れている秋田犬と、羽純ちゅわんとのやりとりのシーンで、いきなりグッときた。わたしはそんなに犬好きではないんだけどな。あわてて言い添えておくと、もちろん少女好きでもない。これも樋口マジックか。

物語の終盤、人間たちの思惑に翻弄されるオオカミの、ものがなしい咆哮がいつまでも後を引く。それは現代人がどこかへ置き忘れて来た野性への郷愁でもあるだろう。読み終えてスッキリ感と後引き感を同時に味わえる不思議な小説だ。印象的な読書体験として長く残るにちがいない。

本書は『約束の地』の続編で、登場人物たちの造形が重なる部分もある。『約束の地』を読んでいなくとも関係なく楽しめる。『許されざるもの』を読んだ後は、きっと『約束の地』を手にとりたくなるだろう。『約束の地』を読んでよかったと思っている人は、『許されざるもの』も同じように、ひょっとしたらそれ以上に楽しめるはずだ。

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許されざるもの 樋口 明雄 (著) 光文社
許されざるもの
樋口 明雄 (著) 光文社
目の前にシカの鼻息〈アウトドアエッセイ〉樋口明雄著
目の前にシカの鼻息|樋口明雄初の〈アウトドアエッセイ〉