立場上、「釣りがうまい」人はたくさん知っている。「上手」の中にも「さらに上手」や「きわめて上手」、「神の手」みたいな方もいる。「神の手」はともかく、釣りがふつうに上手になるには、本人の意思、修練、場数次第で可能だ。もちろん個人差は大いにあって、10年やっていまいちな方もいれば、最初から魔法のように釣る人もいる。そればかりは素質というものだ。
わたしの場合、釣りの素人さんから「釣りがお上手なんですね。」と言われることはある。一方、釣りの玄人衆から「釣りうまいね。」とほめられたことは過去まったくない。なぜならわたしは釣りがうまくないからだ。反論するつもりはない。
しかしである。釣りに人生賭けちゃってるようなヤバい系の人々と一緒に釣りに行って、わたしがわりあい、しばしば言われる言葉がある。それは「あんたは釣り運もってるよね。」というものだ。
釣りが全然うまくないくせに、いつもなぜかそこそこ釣る。みんながダメな状況でも、たいてい半端な結果をだす。『フライの雑誌』を読んでいるような玄人さんから見れば、わたしのフライは目をそらしたくなる低レベルだし、道具立てには何の工夫もなく、ポイント選びも適当で、おふざけ半分でいいかげんに釣っているのに、なぜかおまえは釣るよなあ、というわけだ。
本人的にはいっしょうけんめいやっているつもりなんですけどね。
とはいえ、「釣り運もってる。」と言われるのはもちろんわるい気はしない。むしろ努力とは関係なく持ってる「運」だけで世の中を渡っていけるのなら最高じゃないかと考える人間である。わたしは。
調子のにってさらに言うと、逆説的ではあるが、釣りがうまくないのになぜか釣るのなら、それは釣りがうまい人よりもっとうまいってことじゃないの、すでに無敵じゃん、と思う。鍛錬を重ねてもともと持ってる釣り運へ何ものかをプラスしようとは思わないんだな、ざんねんながら。
今夜、清志郎の「ラッキー・ボーイ」とか、植木等「だまって俺について来い」とかをガンガン脳内大音量で流しながら、へたくそなフライをタイイングしている。あさってからの遠征のために、ストリーマーをせめて20本くらい巻いとかないといけないのだ。さっき見たらフライボックスすかすかで、さすがにちょっとあせった。
ま、現場に行けばなんとかなるだろう。なにしろわたしには釣り運がついているのだから。わたしゃ釣り神さまだよ。みなさんもう少し大事にするように。
いい釣りをしたとき、思いがけず大物を釣ったときは、全能感に満ちあふれる。それは釣りの効能のひとつだ。あたらしい本や雑誌を発行した直後も、おなじく天井なしのナチュラル・ハイに包まれる。いまがそうだ。
どちらかというと、このテンションがいつまで持続するかが、問題なのじゃ。
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荻原魚雷さんのWEB新連載。わはは。魚雷さんは『フライの雑誌』104号にも寄稿してくれています。|WEB本の雑誌