もう10数年以上、「現代の出版は古文書作りだ」と言い続けている。インターネットがインフラ化して四半世紀がすぎ、もはやネットに載っていない情報は世の中にないのと同じ。その情況でわざわざ貴重な紙資源を裁断して版面をつくってインクで何事かを刷るという出版の作業は、グーテンベルクの時代から人類がお世話になってきた情報伝達の使命をとっくに終えている。
では何のために紙に印刷するのかといえば百年後、二百年後に生存しているかもしれない我々の後継者へ、物理的な「モノ」を残すためにほかならない。パピルスとか粘度板に先祖帰りするだけである。めまぐるしい電子データの世界では、今主流のhtmlなりメモリなりが、たった10年後に読み取れるかどうか分からない。いまどき不燃ごみでしかない5インチのフロッピーディスクよりも、わら半紙にガリ版刷りのペラ一枚のほうがずっと役に立つ。
今回出版された『The History of Trout Flies 鱒毛鉤の思想史』(錦織則政著/C&Fデザイン刊)は、古代ローマから20世紀キャッツキルまでの人類の2000年近くを、〈鱒毛鉤の思想史〉という縦軸で貫いた、世にも稀なる大冊である。前作『ザ・ヒストリー・オブ・バンブーフライロッド』(錦織則政著/つり人社刊)で、うるさ方の多いフライフィッシング・マニヤたちを唸らせた著者ならではの力量と執念の成果だ。
今後〈鱒毛鉤〉の歴史について語りたい者は、日本語圏はもとより他言語圏でも、まずこの『The History of Trout Flies 鱒毛鉤の思想史』を手にとらなくてはならない。ここまで過去の文献を掘り下げ莫大な引用を付与した上で〈鱒毛鉤〉の歴史をまとめあげた本は他にないし、これからも出ないだろう。まさに百年後、二百年後に向けて記録された古文書そのものである。
本書の原稿を「悶絶の末に」書き上げた著者は、単行本化を「どの出版社に打診しても断られ」たという。(念のためフライの雑誌社は打診されていないことを明記します)。出版業が専門ではないにもかかわらず、本書の出版を快諾された株式会社シーアンドエフデザインさんの侠気は、後世まで末永く称えられる。
フライの雑誌社では、著者の錦織則政さんには、『フライの雑誌』第102号(2014)で対談をしていただいている。お相手は、『ザ・ヒストリー・オブ・バンブーフライロッド』と同時期に出版された『バンブーロッド教書』(フライの雑誌社刊)訳編著者の永野竜樹さんだ。タイトルは〈バンブーロッドは過去の遺物か〉。ひじょうにエキサイティングで、多くの方に読んでいただきたい内容の対談だ。
この対談の中で、錦織さんは竹竿へのご自身の「興味の範囲は1970年代で終わっている」、「竹竿が新しい釣り方を提案する勢いを失ったのが’70年代」で、そこに「断絶」があると言っている。対して、永野さんは21世紀に入ってから世界中でバンブーロッド・ビルダーが増えている実証を挙げ、「本質は釣りで、釣り具は道具」だから、「過去でもモダンでも関係ない」、現代はバンブーロッドの黄金期なのだと規定している。
『The History of Trout Flies 鱒毛鉤の思想史』で触れている鱒毛鉤の歴史年代は、20世紀中ごろ、せいぜい1970年代までで止まっている。著者の鱒毛鉤についてのスタンスは、竹竿へのそれとほぼ同じだと推察できる。現代の釣り人に寄り添っている現役最前線のキラ星のような毛鉤たちに興味はないのだろう。
評者としては、野球ならジョー・ディマジオの記録も気になるけれど、今季のマー君、および大谷翔平選手の活躍はもっと気になる。相撲なら、伝説の雷電を見たかったとは思うが、できることなら稀勢の里に次の五月場所でもう一度優勝してほしいと心から願っている。音楽のあたらしいムーブは冒険と破壊から生まれ、顔をしかめる年寄りたちの頭上を越えて若者を踊らせる。
フライフィッシングならば、技術の進歩と、市井の釣り人たちの飽くなき情熱に支えられて、時代ごとでプログレッシブに変化していく自由な拡張性が、大きな魅力のひとつだと考える。誰かが操る美しいフライラインの先に、どんな個性豊かな毛鉤が結んであるのかが、いつもとても気になる。
鱒と虫とを追いかけて日々川辺に立ち、次のソーヤーニンフを生みだすべく、夜ふけに一人タイイングデスクに向かう夢想家、釣り人とは生来そういうものだ。酒屋万流、未来は自分の足もとにひれ伏すと思っている。いっぽう歴史家にオリジンは必要ない。あくまで過去に仕える公僕である。
人類は文化という名の膨大な無駄を積み重ねて、現代まで生き残ってきた。腕のいい釣り師が知性と教養を身につければ、鬼に金棒、忙しくて汚職も戦争もやっていられない。世界は平和になって釣りの喜びも深まるし、たいへんよろしい。
『The History of Trout Flies 鱒毛鉤の思想史』の、リファレンス書籍としての価値は大きい。分厚い教養を傍らにひかえさせる、紙の本ならではの満足感を得られる。いまどき珍しい大判の豪華本で、おそるべき重量がある。私利私欲のために公の史実を改ざんしようとする不届きな官吏がいれば、汗を紙に刻んだ重い重い古文書が、戸棚からうなりをたてて降ってくるだろう。
(堀内)