1985年の今日は、人生初のバイクツーリングの初日だった。工場でアルバイトをして買った、ヤマハDT50(もちリミッター無しよ)が相棒だ。上野のバイク街から先週連れて帰ってきたばかり。フライロッドもやっとの思いで買ったUFMウエダのパックロッドだ。
世界は希望にあふれていた。俺はワイルドなフライマンだった。
立川の自宅を午後に出発して、秩父湖のダム堤で野宿(地元の兄ちゃんに絡まれるなどあり)。翌日三国峠を越えて川上村へ下ったら、あたり一帯の気配が異様だった。千曲川の対岸に災害用の大型テントが張られていた。迷彩服の自衛隊員がうろうろしている。
適当な河原へツェルトを張った。同級生から500円で買ったフライシートもない薄っぺらなものだが、ヘビーデューティーな俺の城だと満足だった。それではと、いよいよイブニングライズの釣り支度をしている時に、ラジオで日航機の事故を知った。そういえば三国峠にも自衛隊の車両がいたかもしれない。
対岸のテントを双眼鏡で観察すると(当時は双眼鏡はツーリングに必携と思っていた。理由は知らない。)、「安置所」と書いたのぼりが立っていた。気がするが、これは後付けのうそ記憶だろう。
いずれにせよ、イブニングライズどころではなくなった。せっかく張ったツェルトをたたんだ。またバイクにまたがり、下流部へあてなく走った。とりあえずその場を離れたかったのだ。それでもしつこく釣りはしたかった。だって俺釣りに来たんだもの。本流で釣ろう。
知らない人も多くなっているだろうが、昭和時代においては、イブニングライズは巨大なエルクヘアカディスを瀬でフラッタリングさせるものと、法律で決まっていた。4/5番のスーパーパルサーの先に小さなアブラッパヤがぶらさがった。全然引かなかった。
夜八時過ぎ、すっかり暗くなっていた。もう野宿なんかできない。無人駅の八千穂駅の構内に逃げこんだ。最終電車がホームを離れると駅周辺には誰もいなくなった。駅の灯りから一歩も離れたくなかった。時間がたつほど余計なことを考え、感覚が過敏になった。何かががさりとするだけでぞくっとした。
立ったり座ったり、そのまま朝までまんじりともせず。
翌日、ガーッと走って(若いので)、豊橋駅にたどり着いたときにはもう日が暮れていた。お金はない。夕食は抜きだ。最初からその予定だ。空腹を抱えて駅前のベンチで横になった。10代の俺は、そういうのがかっこいいと思いこんでいたフシがある。蚊にだいぶやられたがワイルドだから大丈夫だ。
すると深夜、地元のおじさんに声をかけられた。なんだかんだと言われて旅館へ連れ込まれそうになった。おじさんは男色家だったのだ。ちょっとドキドキする話はまた今度。
フライの雑誌-第128号
特集◎バラシの研究
もう水辺で泣かないために
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フライの雑誌 124号大特集 3、4、5月は春祭り
北海道から沖縄まで、
毎年楽しみな春の釣りと、
その時使うフライ
ずっと春だったらいいのに!